2013年11月17日

 『 神は信頼に値する 』  カーソン・フーシー宣教師  詩篇147                  
 クリスチャンは、様々な情報源を信頼します。書物、有名人、友人、家族に信頼を置きます。信仰の伝統、金銭、自身の論拠に信頼を置きます。しかし、神に心の底からの信頼を置くことがどれだけあるでしょうか。私たちが最も信頼することのできる神をいつ信頼するのでしょうか。「神を信頼する」とは一体どのような状況なのでしょうか。
 詩編作者は次のように述べています。「助ける力を持たない人間の第一人者に信頼を置かないようにしなさい。」現在と同様に、ここで問題とされているのは、創造主である神ではなく創造物である仲間に信頼を置く人がいることでした。私たちは、私たちを先導してくれる人々を導いている神ではなく、それらの人々に全幅の信頼を寄せることが多々あります。政治家、医者、弁護士、そしてもちろん牧師に全幅の信頼を寄せるのです。しかし、詩編のこの箇所では、神が与えてくださる救済や究極の解放に匹敵するものを人間が与えることはできないことが強調されています。神は神に信頼を置かない悪人の生き方に「失望し」、彼らを「破滅させる」と詩編作者は言っています。詩編作者は、他の人々や人間の創造物ではなく、神に信頼を置く理由を述べています。創世記を見てみると、神がアダムを作ったことがわかります。アダムという言葉は、ヘブライ語で人間を意味し、大地を意味するadamahに由来します。
 詩編作者は、大地から人間を作り、命の息吹をお与えになったのは神であり、人はその命をかけて神を信頼すべきであると述べています。また、詩編作者は、人にかけられた息吹はある日人のもとを去り、その息吹と共に人の未来も終わり、身体と同様に土に還るとはっきりと述べています。イスラエル人には、神に選ばれた民として他の国を指導するという計画がありました。ちょうど私たちがイエス・キリストの福音を隣人と分かち合うという計画を持っているように。その当時真実であったことは現在でも真実です。神を第一に信頼しない場合、これらの計画は、最後の日に最後の息吹が私たちのもとを去り、土に還るように、私たちのもとを去ります。 私たちの信頼はどこにあるでしょうか。私たちは書物に答えを求めることをいつ止めるのでしょうか。私たちは現政権が、次の政権が、その次の政権が私たちのすべての問題を解決してくれることを信じるのをいつ止めるのでしょうか。信仰を持つ理由を与えてくださる神に、私たちが自身の信仰を向けて感謝するのはいつなのでしょうか。創造主であり、私たちを解放し、励まし、支えてくださる主、すべての世代に君臨する主を賛美しましょう。神は信頼するに値します。