2014年2月2日

「あなたにはできるのか」 ルカ10:25〜37
 福音書を見るとイエス様はいつも多くの例えを用いて話しされました。今日の箇所はまず、律法学者がイエスを試そうとする場面から始まります。どうにかしてイエスをおとしめたい、と度々福音書に出てくる通りです。彼らは確かに律法すなわち旧約聖書を研究し、解釈し、これを人々に教え指導する役割を担っていました。しかし、イエスはそんな彼ら律法学者が本当に律法の本質を理解し、実践しているのかどうなのかご存じでした。
 あくまでも自分を正当化して質問してくる律法学者にイエスはたとえ話を用いて話されます。エルサレムからエリコまでの道中である人が、強盗に襲われ倒れていました。そこに、祭司と、レビ人が通りかかります。しかし、彼らは見て見ぬふりをして反対側を通り過ぎて行ったのです。そこに、ユダヤが人から差別され、軽蔑され、一番嫌っていたサマリヤ人が通りかかります。ユダヤ人とサマリヤは絶縁状態でした。(ヨハネ4:9)しかし彼はその人を見て憐れに思い(33節)手当てをし宿屋に連れて行きます。この憐れに思うというところがこの例えの最も重要な言葉です。この人間であれば一番自然な感情をまずあらわします。愛の行いに何も理由などいりません。そしてその人は傷の手当てをし、自分が乗っていたろばに乗せ、宿屋にまで連れて行き介抱してあげます。さらに一晩共に過ごすのです。
 私たちも隣人という枠組みを決めてしまっていないでしょうか。聖書が語る隣人、それはいつも私たちと共にいる家族、親しい友人だけではなく、あなたが一番嫌いで憎くて許せない人こそが隣人であると教えます。あなたはその一番嫌いな人に手を差し伸べることができるでしょうか?
 さらにもう一つこのサマリヤ人が行ったことがあります。このサマリヤ人は最後に宿屋の主人に委ねる決断をしました。つまり自分のできる範囲のことには最善をつくし後は主の御手にゆだねることです。このことも重要なで事はないでしょうか。イエス様は、はたしていつも律法を守っていたはずの祭司やレビ人が本当に律法を守ったと言えるのか。律法の本質である「愛」「憐れみ」を把握しているのは誰なんだ。「あなたにはできるのか?」という問いをこの律法学者達と共に、私たちにも問いかけておられます。