2014年3月16日

                        『 あなたは僕ですか 』
                                Ⅰコリント4:1〜2、ルカ福音書17:7〜10
 聖書の中でクリスチャンを指す言葉の中で、最も一般的に使われていて大切に扱われている言葉があります。それが「僕」と言う言葉です。ペトロをはじめとするイエス様の弟子たちにとって「キリストの僕」という言葉ほど名誉ある称号はありませんでした。彼らは強制的に僕にさせられたのでなく、イエス様の恵みに対して自ら進んでキリストの僕になることを証ししています。
 私たちはイエス・キリストの十字架の赦しと贖いによって救われた者です。すべてが神の恵み、すべてが神の一方的な愛の業によるものでした。私たちの恵みを100とするならば、その100すべてが神の恵みなのです。恵みは100でなければ、もう恵みにはならなくなってしまう性質をもっています。たったの1%だけであっても、神の恵みを自分の頑張り、自分の努力、また、人の業のお陰にしてしまうことで、恵みは「0」になってしまうのです。その結果、人は恵みの信仰を失うことになり、教会も神の教会から人の教会に替わってしまうのです。使徒パウロの告白は真実です。“神の恵みによって今日のわたしがあるのです。”(Ⅰコリント15:10)
 ルカ17章には一人の僕が登場します。彼は一日中、畑での労働で彼の体は大変疲れていました。いよいよ日が暮れ、一日の仕事を終えた僕は家に帰ってきました。しかし、彼が家に帰ってきたからと言ってすべてが終わったわけではありません。彼は再び、家の仕事をしなければなりませんでした。それが僕の働きであって、存在そのものでした。だからといって、誰かが僕の働きを称賛することもありません。しかし、私たちがいつも心に刻み、忘れてはならない大切な僕の告白がここに記されています。“主よ、私はしなければならないことをしただけです。すべてはあなたの恵みです。なぜならば、私は主の取るに足りない僕だからです。”(10節)
 本日は2014年度、神と教会のために仕える執事を選ぶ選挙が行われます。聖書は私たちを恵みの僕であると教えます。そして、僕に求められるのは「忠実」であると宣言します。本日選ばれる執事だけでなく、神の家族一人一人が互いに神の恵みの僕となることができれば神は私たちの群れを豊かに祝福してくださることでしょう。ハレルヤ!