2014.3.23

『 神の武具と共に 』(エフェソの信徒への手紙 6:10〜18)
       
 いよいよ皆さんと、顔と顔とを合わせて礼拝する最後の日になりました。早いものでいよいよ福岡に旅立ちます。私がこれから旅立つとき何を持って行くのか、何を装備していかなくてならないのか、祈りの中で今日のみ言葉が示されました。
 私たちは日々現代の競争社会の中において常に闘いの真っただ中にいるのではないでしょうか。もちろん信仰的な闘いもありますし、仕事での闘い、また学校で、地域で・・あらゆるところで私たちは闘っています。子どもたちは幼い頃から受験戦争に追われ、いつも他の生徒と成績を比べられ、会社に就職してからも、同僚との出世争い、ライバル企業とのし烈な争いがあり、地域においては人々の噂話が絶えません。まさにこの現代の日本社会の中は常に戦場のような激しい戦いの中に生きているといえます。この社会は目に見えないものよりも、目に見えるものを人々は望みます。少しでも人よりも良い会社、学校にいくことがステータスになっているのが、今日のこの世界ではないでしょうか。私たちは神の目には鈍感です。しかし、人気や流行には敏感です。幼い頃からこのような競争社会の中で闘いながら育ってきたわたしたちは、もうすでに無意識の内に様々な武具を身に着けてしまっているのではないでしょうか。
 しかし、あのダビデは巨人ゴリアテとの一大決戦を前にしてサウル王から渡される立派な武具を脱ぎ捨てます!それは常識では考えられない行動です。それこそまさしく、このダビデこそ神の武具を身に着けて戦った人であり、一見するととても弱くも見えるこの無防備のダビデの体には最強の武器と防具により守られていたことが分かります。
 私たちは自分の賜物、自分の聖書知識、自分が今までしてきた奉仕、経験、そのような物を誇り身に着けるのではなく、むしろそれらの私たちが今まで最も大事にしてきたもの、握りしめていた物を、そのようなものがもしあるとするならば、ダビデのように脱ぎ捨てる決断が必要ではないでしょうか。そして「神の武具」だけを身に着け、「神の力」だけを信頼していきましょう。ダビデがそうしたように現実の問題、世間の常識、人の計算によるものではなくただただ神のみ言葉を信じ、祈り、従う決断し、ただ主だけを誇り、より頼む生涯でありたいと思います。

                                    宮田祐亮