2014.4.20

『 死んで、生きる 』(使徒言行録2:23〜32)
 イースターおめでとうございます!!!
 復活された主イエス・キリストの大いなる恵みと祝福が今日礼拝に集われたお一人お一人の上に豊かにありますように・・・。イエス・キリストが死から甦られたという復活信仰はキリスト教信仰の核であります。しかし、イエス様の復活を本当のこととして信じていない人がほとんどである私たちの生きる世界です。恐らく、イエス様の弟子でありながら、「わたしの目でその方の手にある釘跡を見なければ、また、私の手をその方のわき腹に入れて見なければ、信じられない!」と言っていたトマスの態度が正直かもしれません。それほど復活は私たちの常識や合理的理性からしたら、どうしても理解できない出来事だからです。
 本日の本文の中でイエス様は有名な「一粒の麦」の比喩を語っておられます。「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(24節)
 ここで語られるイエス様は自然の摂理について教えようとしたわけではありません。ここでの「一粒の麦」とは、「イエス様」ご自身のことを表す表現です。イエス様はご自身が十字架の上で死ななければ、新しい命の誕生も、豊かな命の実を結ぶこともできないことをよくご存知でありました。特に、今日の御言葉では、弟子たちが自己中心の信仰から、神の国と隣人の救いのために命を捨て豊かな実を結ぶ信仰へと成長することを夢見るイエス様の御心が示されているのです。そこで、イエス様は自ら一粒の麦になり、死ぬ道を受け入れたわけです。その道こそ、十字架の死でありました。
 今日、私たちはイエス様の復活をお祝いしているわけですが、本当に復活を信じるということは、私たちがイエス様の手と足となって生きることであることを忘れてはなりません。また、「地に落ちて死ぬ、一粒の麦になる」ことこそ、復活を体験し、復活の恵みをいただいている私たちの生き方なのです。その生き方を生活の中に受け入れる時、私たちはイエス様と共に永遠の命という実を結ぶことになるでしょう。
 皆さん、復活の生活とはどういうことでしょうか。それは、「罪の中で死んでいた」過去の自分の生活から離れ、復活のイエス・キリストを生活の中心に迎え入れて生きることです。「何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようか、どこで住もうか」などに心を奪われて生きていた人生が、「まず神の国と義を求める人生へ」と変えられることです。自分の欲望と快楽の為に神を利用していた生活から、神の御心が成ることを優先して自分の人生をささげる人になることです。これこそ、復活信仰を生きる人の生活なのです。ハレルヤ!