2014.5.4

『 大切なのは、新しい創造 』(ガラテヤの信徒への手紙6:11〜18)
 イスラエルでは子供が生まれて8日目に割礼を授けます。それは言うまでもなく、「あなたは神の選ばれた民、アブラハムの子孫である。選ばれた民として神の栄光を現して生きていってほしい」という親の信仰の印なのです。これこそ、親が子に対しての信仰の最高の遺産であり、イスラエルの人々にとってのアイデンティティそのものでありました。ですから、割礼というのは神の大いなる恵み、祝福であり、喜びであったことでしょう。しかし、時間の流れていくにつれて、割礼は恵み、感動、喜びから、選ばれた民としての傲慢の印に代わりました。人を裁く手段となり、自己満足のための勲章のような形式的意味の象徴に変わってしまいました。
 使徒パウロは宣言します。「割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。」(15節)そうです。信仰における大切な焦点となるのは、「私たちが何かをしているか否かにあるのではありません。」大切なのは、目に見える体の印でなく、目に見えないあなたの全人格的な変化、イエス様の十字架による新たな創造があなたの人生の中で起きているのか!ということが大切なのです。
 続いてパウロは告白します。“これからは、だれもわたしを煩わさないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです。”(17節)「焼き印」と訳される「スティグマ」とは当時、奴隷の体に押し付けていた焼き印のことであり、それによって“この奴隷の主人が誰であるか”が明らかにされたのです。ですから、「イエスの焼き印」とは、パウロ自身が「主イエスの福音宣教の故に受けた迫害の傷跡」を指す言葉であります。もし、神の家族のうちに、イエス様を信じることで受ける様々な苦しみ、また、傷があるとすれば、それこそイエスの十字架の焼き印であることを思っていただきたいですね。その焼き印を通して、わたしたちはイエス様のものとなり、父なる神が覚えてくださり、愛してくださるのです。
 わたしは願います。小泉町教会の親たちが、子どもたちに「人生の本当の誇りとすべきものは割礼のような目に見える行ないでなく、イエス・キリストの十字架であること、また、十字架の福音のために生きることこそ幸いな人生である」と。ハレルヤ!