2014.5.18

『 幸いを求める人々へ① 』(マタイによる福音書5:1〜12)
        −心の貧しい人々は幸いである−
 私たちは、本日からしばらくの間、聖書の教える真の幸い、祝福について知る旅を始めたいと思います。特に、イエス様の山上の説教から教えをいただきながら聖書の幸いの旅を続けたいと願っています。この旅を通して私たちは新しい信仰の次元に目覚めることになるでしょう。
 マタイ福音書5章は「山上の説教」と言われる、イエス様の教えの中で最も有名で、多くの人から愛されている箇所です。その中でも光と輝くところが、山上の説教の導入部となる八つの祝福なのです。
 ①「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである。”(3)
 イエス様の教えられる「幸いな人生、祝福」とは貧しい心をもつことから始まります。「もっと集めなさい、もっともっと欲張りなさい」というこの世の声とは違って、イエス様は「貧しくなりなさい。貧しい人こそ真の幸いを得ることになるのだ!」と宣言しておられるのです。しかも、ここで使われている貧しいというギリシャ語の「プトーコス」(πτωχος)は、普通の貧しさのことではなく、絶対的な貧しさ、貧困状態、自己破産してしまったため、誰かの助けがなければ生きられない状態のことなのです。特に、「心、霊においての貧しさ」という意味です。つまり、神との関わりにおける貧しさです。自分の力では決して解決できない、霊的に悲惨な貧困状態、霊的な自己破産、それが私たち人間の真相なのです。イエス様はこのことに気づく者こそ、幸いなのだと言われているのです。つまり、神の恵みと御言葉における絶対的貧困状態にあることを自覚する人が、天国にある霊的な豊かさ、真の幸いにあずかれるのだとイエス様は教えておられるのです。
 「わたしは口を大きく開き、渇望しています。あなたの戒めを慕い求めます。」(詩119:131)そうです。神の前に来る貧しい人が、着飾ったり、格好つけたりする余裕はありません。その人に求められるのは、ただひたすら神の恵みと助けを乞い求める神の乞食の姿です。特に、礼拝に出席する度に、心を空っぽにし、神の恵みと御言葉に飢え渇いて、口を大きく開いて渇望する神の家族にイエス様は天の国を与えてくださることでしょう。ハレルヤ!