2014.5.25

『 そうでなくとも 』(ダニエル書3:16〜25)
 キリスト者は祈ります。パウロの言葉を借りると「絶えず祈る」生活を心がけながら生きている人がキリスト者です。特に、乗り越えられないような問題、厳しい試練に直面した時にはその祈りが一層切なくなっていきます。そこには、神への揺るがない信頼と祈る人の命をかけた決断があります。
 この世界において最も強い人とは、死を恐れない人でしょう。聖書における信仰の先人たちは、「鞭打たれ、鎖につながれ、石で打ち殺され、のこぎりで引かれ、剣で切り殺される」(ヘブライ11:36〜38)など、福音のために絶えず迫害を受け、力なく死んでいきました。しかし、不思議と福音は世界の隅々まで広がっていきました。キリスト者は最も弱く見えても、実は最も強い存在です。なぜならば、彼らは死をも恐れないからですし、永遠を今生きているからです。
 それでは、彼らはなぜ、死をも恐れないで信仰を貫くことができたでしょうか。その理由こそ、本日のダニエルの3人の友人たちのもっていた「そうでなくとも」という信仰にありました。「そうでなくとも」という信仰とは、人の期待を裏切ることが続き、祈りが応えられなく神に捨てられてしまったような状況に囲まれ、死ぬところまで追い込まれるようなことになっても!という意味です。信仰とは,人にはすべてのことが理解できなくても,神は知っておられると信じることです。また、人の力には限界があっても,神の力には限界がないのを知ることです。これこそ、十字架から復活へとつながる信仰であって、永遠を見上げる信仰なのです。
 シャドラク,メシャク,アベド・ネゴは,どのようなときでも主が共におられること、主は人知を超えて働かれる方であることを信じていましたし、自分たちの思いより、神の御心が成ることを優先する信仰の持ち主でした。だから、彼らは身の危険を前にしてでも神への信仰を人々の前に明らかに表すことができたのです。
 神の家族の皆さん、どうしても乗り越えられないような試練に遭う時、切なる祈りが応えられないような状況に立たされる時、ぜひ、「そうでなくとも」という信仰の言葉を心に刻んでください。生きて働かれる主はあなたを離れた時も、あなたの祈りを忘れたこともありません。あなたを通して栄光を現されることでしょう。ハレルヤ!