2014.6.15

『幸いを求める人々へ② 』(悲しい人々は幸いである)
             マタイ福音書5:3-10
 今日、私たちは八つの祝福の旅を始めてから二つ目の旅に出会うことになります。“悲しい人々は幸いである。彼らは慰められる。”(4)
 実際、人々は人生の中で涙、悲しみ、悩みなどはできることならばなくしたい、消しとってしまいたいと思うことでしょう。悲しむよりは喜び、涙よりは笑いながら人生を生きていきたいからです。
 ギリシャ語の「悲しい」という言葉は、「ペンテオ」といいまして、これは悲しいという感情を表す言葉の中で最も強い悲しみを表すものです。特に、愛する者を亡くした人が味わう極限の悲しみこそ、「ペンテオ」なのです。また、この悲しみは涙を伴うものです。
 人は人生において流す涙をなくすために多くの努力をしてきました。お金を稼いで金持ちになれば、また、成功して権力を得れば、悔しい涙は流さなくてもいいと思ってきたことでしょう。しかし、お金持ちになって、成功して力を得たとしても、また違った悲しみと涙が存在することに気づくことでしょう。それが、人がもつ弱さであり、人がいくら努力をしても解決できない根源的な領域であると言えましょう。そこで、イエス様は「悲しい人々は幸いである」と宣言しておられます。
 ここで、その悲しみが幸いな悲しみになるためには、その悲しみを持った人がイエス様の方に方向を向けることに幸いの道があると聖書は教えます。聖書が教える人間の悲しみと涙の原因は罪と死の問題にあります。この問題を解決できなければ、私たちの悲しみは後もなく続くことでしょう。どうしても乗り越えられない罪と死の問題の前で人は絶望し、悲しい涙を流すことになります。しかし、その悲しい涙こそ、イエス様の十字架に出会わせてくれる通路となりますし、そこでその悲しみと涙を拭い取ってくださるイエス様の慰めをいただくことになるのです。
 神は必ず、十字架の前で悲しむ人の魂の上に人知を超えた慰めの幸いをくださいます。そして、悲しみが自分に止まることなく、もう一歩進んで隣人の罪と死の問題に悲しみ、その人をイエス様の十字架の赦しと愛へと導くために涙を流す人を喜ばれることでしょう。ハレルヤ!