2014.7.27

『 何が見えますか 』(マルコによる福音書8:14〜26)
 キリスト者にとって最も大切な信仰の目標とすべきものは「神を知る」ことであります。これに代わることはありません。しかし、ここで強調されている「神を知る」とは、頭の知識的な意味ではなく、全人格的経験を通して知ることであると繰り返して分かち合ってきました。特に、神の御心を悟るということはキリスト者の究極の望みではないでしょうか。しかし「神を知ること」は、信仰歴の長さとか、信仰の熱心さ、聖書知識の豊富さにあることではないことに戸惑いを覚える方が多いのかもしれません。本日与えられている聖書の中の弟子たちも同じでした。彼らはイエス様と3年以上もずっと寝食を共にしながら歩んできました。数え切れないほどイエス様の教えをいただき、たくさんの奇跡を目の当たりにしていた人たちでした。しかしその恵みをあまりにも簡単に忘れてしまっていました。イエス様はそこで、弟子たちの不信仰に対して厳しい問いかけをされます。(17〜21節)
 「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ分からないのか。悟らないのか。心が頑なになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。まだ悟らないのか・・・」と。5つのパン、また7つのパンを用いて成されたイエス様の大いなる奇跡を確かに見た弟子たちが、今1つのパンしかもっていないことで心配している。大切なのは、5つ、7つ、いや、1つだけであっても、それがイエス様の手にあるか否かの問題なのです。イエス様の前では5つ、7つ、1つは同じなのです。しかし、人は数字にこだわります。今私たちの中に1つのパンしか残っていなくても、イエス様の手にその1つのパンが置かれているのであれば大丈夫だ!ということなのです。
 そこでイエス様は、一人の盲人の目を癒す出来事を通して私たちへの御心を示されます。弟子たちの不信仰が少しずつ信仰へと変えられる。見えていなかった目がだんだんと開かれていく。今はまだまだぼんやりとしか見ていない私たちかもしれませんが、イエス様は必ずはっきりと見る目を与えられるはずです。ただただ、私たちはイエス様に触れていただくこと、イエス様の御前に謙遜にひれ伏して御手で触れていただくことを求めることです。ハレルヤ!