2014.10.5

『 御言葉から礼拝へ② 』(ネヘミヤ8:7〜12)
 目に見える城壁再建という神の事業は完成したけれども、実は、もっと大切に再建すべきことがありました。“神の民の再建”、これこそ目に見える城壁より大切に再建すべきことであると気づいたネヘミヤとエズラ二人によるイスラエル民の霊的復興への取り組みが続きます。聖書の歴史の中で繰り返し教えられた神のメッセージは、神の求められる信仰は、目に見えるものより、目に見えない内側の方であることでした。崩れていた城壁再建だけでは終らないし、終わってはいけない。また、新約聖書は、私たちキリスト者をキリストの神殿であり、キリストの体であると宣言します。そして、キリストの神殿であるキリスト者と教会を建てていくことがいかに重要であって、また、難しいことであるかも教えられています。その真の神の神殿の再建の出発点こそ、神の御言葉をいただき、御言葉に応答し、御言葉に生きることなのです。
 本日のネヘミヤ8章は御言葉に対する神の民との関係をいくつかの言葉をもって教えてくれます。「まず朗読され、説明され、翻訳され、理解した」ということでした。ここに私たちの礼拝の命が示されているのです。
「というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。」 (ヘブライ4:12)
 神の御言葉は生きています。なぜでしょうか。神は御言葉を通して語られるからです。天地創造の時から、そして、神のロゴスとして来られたイエス様を通して、また、聖霊のお働きによって御言葉を悟る知恵と真の命をもたらしてくださり、救いの恵みに与らせていてくださるのです。これらの御言葉が語られる場が礼拝であり、私たちはこの礼拝において新しい命に生かされることになるのです。エズラたちによって御言葉が朗読され、解き明かされ、民がこれを聞き、理解した時に御言葉への反応が起こります。「嘆きと涙」がそれでした。そうです。生きている御言葉を聞いて何も反応が起こらないはずがありません。もし私たちのうちに御言葉を聞いても心動かされず、悔い改めも起こらず、何の反応も生まれないとするならば、私たちの献げる礼拝を通して本当の御言葉が語られているか否か、でなければ、御言葉を聞く一人一人が御言葉の前に正しく立っているか否かということを問われなければならないでしょう。