2014.10.19

『 義に飢え渇く人々は、幸いです。 』(マタイによる福音書5:3〜10)
 ギリシャ神話の中にはタンタロス王の物語があります。タンタロス王は神の食物を盗んで人間の友人に分け与えたことで、神の怒りを買って永遠に飢え渇く刑罰を受けることになり、沼の果樹に吊される身になります。沼の水は満ちてきてあごまで届きますが、タンタロスがそれを飲もうとして身をかがめるとあっという間に引いてしまい、果樹の枝にはさまざまな果実が実っていますが、タンタロスが果実に手を触れようとすると、たちまち枝が舞い上がって逃げてしまう、こうして、タンタロスは永遠に止むことのない飢えと渇きにさいなまれつづけることになります。この神話は「人々が一生懸命に捜し求めている欲求がこのような空しいものである!」ことを教えています。 
 さて、今日、イエス様は四番目の祝福について語られながら、私たちが本当に飢え渇きを覚えるべきことがあると言われます。それが、「義」というものです。義に飢え渇くことになれば、必ず、「満たされる」というのです。ところが、私たちはこの「義」ということを考えると絶望するしかありません。この世には「義人、正しい人」はいないからです。すべての人は罪の中で生まれ、常に罪の性質をもっているために、罪を生きる生活をするしかない存在です。どうしても罪から聖くなったり、正しくなるということはできないのです。罪(ギリシャ語:ハマルティア)は「的外れ」という意味をもっています。そうであれば、罪の反対語である「義」という言葉の意味こそ、「的を外れないこと」であると言えましょう。
 私たちが本日のイエス様の御言葉を聞いて恵みとチャレンジを受ける理由は、その御言葉の中にイエス様からの招きがあるからです。イエス様は私たちが満たされるためには、「義を行なわなければならない!とか、正しい人にならなければ満たされないのだ!」と言われていません。「義なる人、正しい人になる」ということではなく、「神の義に飢え渇き、神の助けと恵みを乞い求めて近づくこと」なのです。義についての渇望、自分の力ではどうしても満たすことができないことを認め、真の義なる神に慕い求めることを望んでおられるのです。その約束のしるしとしてイエス様は十字架の上でご自分のお体を裂き、血潮を流してくださったのです。このイエス様のお体と血潮をいただく時、すべての飢え渇きが永遠に満たされる喜びに生きることになるでしょう。