2014.11.2

『 恵みの食卓に招かれる神 』(サムエル記下9:1〜13)
 全イスラエルの王となったダビデはある日、親友のヨナタンと交わした約束を思い出します。そこでダビデ、「サウル家の者がまだ生き残っているならば、ヨナタンのために、その者に忠実を尽くしたい。」と命令を出すことになります。今日の本文には「忠実を尽くしたい」という言葉が1 ,3, 7節と3回も使われているほど、ダビデヨナタンと交わした約束を大切に思っていたことがうかがえます。「忠実」と訳されている原語は「ヘッセード」です。この言葉は、旧約聖書における神の愛を表す言葉です。神は契約を結んだ人に対してどこまでも責任をもって、忠実、誠実、真実を尽くし愛するという意味です。このヘッセードを用いて、ダビデヨナタンと交わした契約を果たすために、その息子メフィボシェトを捜し出します。そして「忠実を尽くす」約束を果たすために、ダビデはメフィボシェトにもともとサウル家の所有していた土地を与え、その土地から得られる収穫一切を彼の所有とします。それに加え、彼を自分の息子のように、毎日、王の食卓に招いて食事を共にするという恵みを施します。
 メフィボシェトとは「恥をまく者」という意味です。当時の社会通念から見たら、王家が変わってしまった場合、新しい王朝は、後に訪れるかもしれない危険を事前に防ぐために、前の王家の血筋を一人残さず殺す時代でした。ですから、とっくに死んでも不思議でないメフィボシェトでした。しかし、ダビデの忠実を尽くす愛と恵みによって、「恥をまく者から恵みを受ける者」に変えられることになったのです。メフィボシェトは告白します。「僕など何者でありましょうか。死んだ犬も同然のわたしを顧みてくださるとは。」と。顔を地面につけ、飼い主の前にひれ伏している犬のようなメフィボシェトでした。
 「恵み」というのは何の資格もない者が、驚くべきプレゼントをただで受けることを言います。私たちの父なる神様は、メフィボシェトのようなわたしたち、罪の中で汚れ、人生の様々な問題を抱え、弱く、深い傷を負っている私たちを恵みの食卓に招待しておられます。私たちが何か資格があるから、王なる神様から恵みを受けるのではありません。むしろ、わたしたちが罪と弱さのゆえに絶望するからこそ、真の赦しと恵みをいただくために王なる神の前に進み出ることができるのです。愛される価値のない私たちであるにもかかわらず、イエス・キリストの十字架のヘッセードの愛と贖いの血潮のゆえに、神の恵みの中に導き入れられ、神の恵みの食卓に招かれる者とされたのです。ハレルヤ!・・・“だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づきましょう!”(ヘブライ4:16)