2014.11.9

『神の恵みを受け入れる』 (ヨナ書3:9-4:11)  カーソン・フーシー師
 今日の聖書の箇所は、旧約聖書の十二小預言書のひとつ「ヨナ書」の終わりのところで、 ヨナのつとめが完了した後に起きたことです。ヨナがニネベの街の門にたたずみ、この地で過ごしたたいへんな日々のことを思い出しながら、イスラエルに帰ろうとしていたときのことを、想像してみてください。ニネベ人はイスラエルの大敵です。そんな相手に、主なる神に立ち返るように警告することを命じられたヨナは、一度はその召命から逃げ出しましたが、結局つとめを果たしました。それでも、心の中では敵の住むこの街が主のさばきにより全滅することを期待していたのです。
 しかし、ニネベの人々が悔い改めたので主は彼らを罰することをやめられます。主のこの御決断にヨナは烈火の如く怒り、主に向かって、自分の敵が恵みを受けるのを見るくらいなら死んだほうがましだと告げます。主は、ヨナの目を開かせて、信仰に対するものの見方をもっと大きいものにしようと考えられます。まず、とうごまの木を生やされ、ヨナを暑さから守られましたが、その翌日には一匹の虫を送られ、これで木は枯れてしまいます、とうごまの木に一喜一憂するヨナに、主はご自分がニネベの12万の人と動物に寄せられる気持ちにくらべたらそれはなんと小さいことか示されます。
ヨナ書の預言者であるヨナは、主の召命に逆らい文句を言います。一方でこの預言書は、神の恵みがどんなところに広がっているか示してくれます。すなわち、異教の神を信じていた船員や、ニネベの人々は主に立ち返ります。また、魚、とうごま、虫、熱風といった自然も、忠実に主の命令に従います。
 主はすべてのものの神です。また、私たちの呼びかけに答えてくださり、ご自分が作られたものの間に入って働かれる親しいお方です。わたしたちは、自分の解釈や体験だけで主がどういうお方か決めていないでしょうか。それは、主を箱に押し込めてしまうようなものです。自分の信じることだけを主も信じて、自分の憎むものは主も憎むかのように考えていないでしょうか。
主は我々の想像を超えた御業をなさいます。それが、私たちの望むものと違うとき、不満を感じるとしたらヨナと同じです。それでも主は怒るに遅く、愛するに速やかな方ですから、そのような私たちをも導かれて、ご自分の被造物への愛がどのようなものか示してくださいます。わたしたちもヨナと同じように、主の召命に対して喜びと愛をもって答えられるように気持ちを変えなければいけないときがあるはずです。その機会はどこでしょうか?