2015.1.4

 『 幸いな人、幸いな教会 』 詩編23:1〜6、73:28)
 本日の73編28節の詩人は“わたしは、神に近くあることを幸いとし、主なる神に避けどころを置く。わたしは御業をことごとく語り伝えよう。”と歌います。2015年、新しい歩みを始めようとしている私たちに問いかけます。“この一年、あなたは幸いをどこから探そうとしていますか。”と。
 「神に近くあること」はどのようなことを意味しているでしょうか。これは「関係」を表す言葉で、詩人と神との関係がいかに近く親密であるかを示しているのです。人と人が親しくなるためには、まず互いが近づきよく対話をし、多く触れ合うことにあるでしょう。しかし、これは神と人との関係においても同じであることを心がけなければなりません。ここにキリスト教の神を人格的な神と言っている理由が示されていることでしょう。
 聖書の神はどんな方でしょうか。神は天と地、全宇宙を造られた創造者。日々、愛する人を守り共に歩まれる方。独り子イエス・キリストを遣わし、私たち罪人の罪をすべて背負わせ、十字架の上で死なせられたお方。それだけでなく、主イエスを救い主として受け入れた人の心の内に聖霊を贈られ、交わり助けてくださる。この神との交わりの中に生きるのが私たちクリスチャンなのです。神の、人への望みはただ一つ、その人と近くで愛の交わりをもつことです。聖書の神はただの宗教儀式の対象になることを望まず、人と毎日顔と顔を合わせ、親密な交わりをもつ関係を望んでおられるし、人にご自身の実存、現存を示されることを喜ばれる、まさに生きておられる神なのです。だから詩人は生きておられる神と交わるため、近づく人を幸いな人だと呼んでいるのです。
 ダビデ王こそ、この「幸い」を、生涯を通して受けていた人でした。聖書はダビデを神の御心に適った人として生涯を歩み続けたと書いています。その秘訣こそ、日々、神の御前に近づくことを最優先にすることでした。ダビデの詩を見ると、彼がいかに神との交わりに渇き、神の臨在を慕い求めていたのかがよく分かります。詩編23編は、年老いたダビデが人生を振り返りながら、彼自身と神との関係を羊と羊飼いの関係であったと紹介します。羊はいつも羊飼いのそばにいます。羊飼いは羊を青草に、憩いの水の辺に導き、狼などの敵から羊を守り、時に適った恵みを与えてくれます。だから羊は羊飼いのそばにいることを選び、そこで幸いを見出すことになるのです。今年は羊年、この一年間、あなたの幸いが羊飼いとの関係から得られますように、それから、あなたが得た幸いをあなたの周りにことごとく語り伝える一年となるように…。