2015.1.18

『心の清い人々は、幸いです。』 (マタイ5:3〜10)
 聖書は旧約聖書から心について大きな関心を寄せています。心とは単純な感情を表すだけでなく、私たち人のすべての人格の中心を表すものです。私たちの思いと動機と意志などの源となるのが心であると言えましょう。しかし、本日の聖書は「その心」が清くならなければならない!と教えています。
①「心の清い人」
 イエス様の言われる「心の清い」という言葉の「清い」のギリシャ語は「カタロス」といいます。これは、100%純金のような混じりけなしの、純粋な心という意味もあります。しかし、ここで大切なことは、「清い人」という言葉は、もともとその人が清いという意味ではなく、清くなかったものが清くなった人という意味で使われています。
 ある神学者は「心の清い」という言葉を「動機が常に純粋である人」と訳しています。すなわち、行為の前にその心の動機を自己検討するという高い要求が求められているというのです。いくら立派な行為であっても、その動機が自己満足、人からの賞賛を期待してのものになったら神の幸いをいただくことはできないのです。そのため、私たちの心にフィルターをつけることです。そのフィルターで心の不純物を取り除くことです。そして、そのフィルターとなるものは御言葉です。いつも御言葉のフィルターにあなたの心を通すことで、純粋で輝く神の御心だけが残ることになるでしょう。
②「神を見る」
 神を信じている人なら、誰でも神に会いたい、両手で触れて見たいという願いを持っているでしょう。しかし、これは無神論者と言われる人にも同じく当てはまるのではないでしょうか。実際、神が自分の目に現れるのであれば信じる!という人をよく見かけるからです。そこでイエス様は言われます。「心の清い人だけが神を見ることができる」と。聖書の中で、「いつも目の前に主を見ている。」(使徒2:25)と告白していた人がいました。その人がダビデです。それでは、ダビデはいつも完全で、罪のない清い人だったのでしょうか。いいえ、彼は人生において何度も罪を犯し、殺人という大罪も犯した人でした。そんな彼が「いつも神を見ている」と歌っている。そして、神もダビデを「御心に適った人」と認めておられる。・・・この幸いに至る道、あなたの心にあるのです。混じりけなしの神への一心をいただくことです。