2015.2.8

 『常に』(詩編34:1〜10)
 今日の詩編34編はダビデがペリシテ王のアビメレクの前から気が狂ったふりをして逃れた時のことを背景に書かれた詩です。この時、ダビデは、サウルを避けて逃げたものの、彼が辿り着いた場所は、イスラエルの長年の敵であるペリシテの地でした。ところが、ペリシテの地に着き、アビメレク王の前に立ったダビデでしたが、ペリシテの英雄であったゴリアテを倒した人であるということが知らされるようになって危険にさらされてしまうのです。ダビデにとって“絶体絶命”の時が訪れたのです。そこで、ダビデは危機から逃れようと、よだれを垂らして気が狂ってしまった人のふりをして命を守ることができたのです。ダビデがその絶体絶命の危機から逃れてから、書いた詩が本日の34編の讃美詩です。
 “どのような時も、わたしは主をたたえ、わたしの口は絶えることなく讃美を歌う。わたしの魂は主を讃美する。貧しい人よ、それを聞いて喜び祝え。わたしと共に主をたたえよ。ひとつになって御名をあがめよう。”(詩編34:2〜4)
 わたしたちが覚える「恐れ」というのは、目に見えるわたしたちを恐れさせる対象より、心に潜んでいる「恐れ」という感情によるものであることを知らなければなりません。目に見える存在が怖いのでなく、その存在への恐れという思いがわたしたちを恐怖に陥れるのです。
今日の詩篇には“常に”という言葉が何度も登場します。5節、7節、18節・・・。ここで、使われている「常に」のヘブライ語は“ウミッコール”といいますが、これは、時間だけのことでなく、すべての状況、すべての出来事の中という意味があるのです。すなわち、私たちが常に神が救ってくださったと告白する前に、私たちクリスチャンの姿こそ、主に「常に」叫び求める姿が求められるということです。「常に救ってくださった」という告白の前に、私たちの叫び求める信仰の姿勢が先にあったということです。
わたしたちは“常に”祈ることができます。
 父なる神は、常に子どもたちの叫びを聞いてくださる、常に、一時も耳をふさぐことはない。神は常に助けと救いをもって応えてくださると、語っているのです。
 愛する皆さん、クリスチャンの信仰は、この“常に”という言葉に表されなければなりません。神様とわたしたちの関係は“常に”求め、“常に”応えられ、“常に”讃美し、“常に”交わる、ことのできる関係なのです。・・・わたしたちの24時間、365日、神は「常に」わたしたちに目を注ぎ、耳を傾けてくださるのです。