2015.2.15

『心の幸いな人々は、幸いです。②』〜神を見る幸い〜(マタイ5:3〜10、使徒2:25〜26)
 本日は「心の清い人々」への祝福の約束である「神を見る幸い」を分かち合いたいと願います。
 神を見ること、それは信仰者にとっては夢であり、生涯における望みかもしれません。旧約聖書における信仰者は、神を見ると死んでしまうという恐れを抱いていました。罪人で汚れている人間が、創造者であり罪とは関係のない完全な聖さをもっておられる神を見ることで、死んでしまうという信仰をもっていたからです。それでも人が神を見たい、神に会いたいというのは人間の抱いている本能なのかもしれません。
 イエス様は言われます。「心の清い人だけが神を見ることができる」と。ここで「見る」という言葉は、実際に肉眼で見るという意味に加え、心や霊的な目で見るという、すなわち、目で見て知るということと同時に「経験する」という意味も含んでいるのです。
 聖書の中で、「いつも目の前に主を見ている。」(使徒2:25〜26)と告白していた人がいました。その人がダビデです。ダビデは決して完全で、罪のない清い人ではありませんでした。何度も罪を犯し、殺人という大罪も犯した人でした。そんな彼が「いつも神を見ている」と歌っている。そして、神もダビデを「御心に適った人」と認めておられる。この幸いに至る道、あなたの心にあるのです。混じりけなしの神への一心をいただくことです。
 神との交わりを生きる人は、一本の木から、花から、一羽の鳥から神を見るのです。綺麗な青空から、いや嵐と台風の最中から神を見ることができるのです。しかし、被造物だけに限るわけではありません。私たちの置かれているどんな状況からでも神を見出すことができます。私たちの傍でいつも共に、歩まれ、助けられ、導かれる神を、いつも愛の交わりを備えておられる神を見ることができるのです。しかし、これはすべての人に与えられるわけではありません。心が清くなければ、決して神を見ることはできないのです。愛する神の家族の皆さん、皆さんはこの神様を見ているでしょうか。その方とどのように交わっているでしょうか。その方をどんな方だと証しすることができるでしょうか。真の清さを得る道こそ、イエス・キリストの十字架の道、十字架の赦しと贖いの恵みの道を日々生きることなのです。ハレルヤ!
“心の清い人々は幸いです。その人は神を見るからです。”