2015.3.8

『突拍子(とっぴょうし)もない』使徒言行録3:1〜10)
 ペトロとヨハネは祈りの時間を控えて神殿に行く途中、体の不自由な人に会いました。その人は施しを願いましたが、二人とも金品を持っていません。そこで、ペトロがその人に申し出たのは突拍子もないことでした。「持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」なんとその人は自分の足で立ち上がりました。躍り上がって神を賛美します。ペテロとヨハネは彼と最高の友達のように抱き合いながら神殿の中に入って行きます。奇跡を見届けた証し人となった彼らは、中も外も、造り変えられたのです。
 このように、ペテロとヨハネは、常識と違う道を行きました。それはキリストの名を掲げた信仰を通して、贖いへと向かう道です。ペテロは、自分の信仰をキリストに委ねたのです。神が自分を用いて何か予想もできないみわざを現してくださるためでした。しかし、それはもともと彼らの先生であるイエス様の方法です。イエス様こそが、安息日に人を癒すことから嵐の海をしかりつけて鎮めることに至るまで、予想もつかないみわざをたくさんなさいました。イエス様の上にとどまられ、ペテロに働かれ、突拍子もないことをやってのける力を与えてくださった聖霊は、今のわたしたちが生きる世にも生きておられます。
 わたしたちは「善いキリスト者」としてものごとを効率的に、注意深く、慎重に運びたくなるのではないでしょうか。しかし、そのとき「感動」ということは、想いの中から忘れ去られていることでしょう。わたしたちとともにいてくださる聖霊が働いて、強烈な方法でわたしたちの相手の生き方を作り変えてくださることを思い出そうではありませんか。世の中にもある集まりと同じようなことをするのでも、教会なればこそ「何かが違う」ようにできるのではないでしょうか、それはどう違えばいいのでしょうか?何か突拍子もない行動に出たといっても、それは本当に全ての人を大事にして、仲間に迎え入れることになったのでしょうか?もしそれができれば、その美しさは、わたしたち全員が聖霊様から力をいただくことにあります。キリストの愛と恵みというとてつもない贈り物をみんなと分け合うために、聖霊様は力をくださるのです。
 どんな機会に人の驚くようなことをすることができるでしょうか。人との交わり、奉仕、祈り、またはただ誰かに言葉をかけるだけのときでも、あるいは、だれかの話を聞こうとするときかもしれません。いつ、どんな人が我々の教会の門に来るかもわかりません。そのときに我々がしてあげられる「突拍子もないこと」とは、なんでしょうか。誰がどんなことを我々に望んでも、そのとき我々が何も持っていなくても、信仰を持って「わたしにあるものをあげましょう」と答えることができますように、私は望み、祈ります。アーメン。                                
                    ローラ・フーシー宣教師