2015.3.22

 『義のために迫害される人々は、幸いです。 』(マタイによる福音書5:3〜10)
 イエス様の山上で語られた8つの幸いを一言でいうと、「逆説」という名前の幸いだと言えましょう。その教えは現代人にとってはなかなか受け入れ難く夢を追うような矛盾であるかもしれません。もちろんそうでしょう。イエス様の教えは「この世」ではなく「神の国」への教えであって、神の国を生きようとする人に約束されている幸いだからです。本日の聖書箇所はその「8つの幸い」の最後の幸いについて語られています。
 義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。(5:10)
 8つの幸いの結論こそ、「天の国」です。八つの幸いは天の国から始まり天の国で終わっています。ここにキリスト者の所属先がどこの国なのかが示されているのです。すなわち、キリスト者は地上の日々を生きながら同時に天の国に属して生きている存在であるということです。このことはこの世の人には決して理解できない真理であると言えましょう。神はこの天の国の幸いを私たち人に与えるために、自ら人となり、苦しみを受け十字架で死なれ、よみがえられたのです。また、再び来られる約束をされたのも天の国の幸いを与えるためでした。しかし、天の国は死んでから行く場所ではないのです。福音を信じて救われた人は将来への天の国の幸いの約束を胸に抱いて生きると同時に、今天の国の幸いを味わい生きることができるのです。
 天の国の幸いが約束されている人は、「義のために迫害される人々」です。ここでの「義」とは、わたしたちが一般的に考えている倫理的、道徳的規準における義のことを意味していません。イエス様の言われる「義」とは、イエス・キリストを主と信じ、神の子とされた人が、イエス・キリストからいただいた福音を生きるために示された道、すなわちイエス様の歩まれた十字架の道を表します。イエス様の「十字架」を話す時、わたしたちが忘れてはならないことが苦難と迫害、犠牲が伴うということでしょう。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(マルコ8:34)と言われたように、イエス様の後に従おうとする者、キリストの義を生きようとする者に伴うものこそ、十字架なのです。それでは、十字架とは何でしょうか。十字架は死を象徴し、苦難を意味します。しかし、わたしたちの背負う十字架は先に歩まれ、十分背負えるように力をくださるイエス様の助けをいただいて背負えるものであるゆえ、恵みと幸いに変わるのです。天の国を仰ぎつつ十字架の道を従って歩むあなたを祝福します。ハレルヤ!