2015.3.29

『キリストの御姿に変わるまで』(フィリピの信徒への手紙3:17〜21)
 春の色が深まっている日々です。今はレント、受難節ですが、神の家族の皆さんはイエス様の苦難を受けられる姿を日々の生活の中でご覧になったでしょうか。あるいは、毎日の忙しさのゆえに今が受難節であることさえも忘れて過ごしてきてしまったでしょうか。
 本文の御言葉でパウロは、傲慢とも受け取れるような言葉を投げかけています。 “兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。”(17節)
 この世の誰が「わたしに倣う者になりなさい」と言えましょうか。特に、人の前で高ぶらないことを美徳としている日本文化においてはどうしても受け入れ難い言葉です。パウロはなぜこのように言えたのでしょうか。
 まずこの言葉は、自分自身が十字架のイエス様の前で一度死ぬことを経験した人であったがために語ることができたのでしょう。十字架の上で自分自身が死んだ体験、イエス様の十字架の上で古い自分が死んで、キリストと共に新しい自分が生まれたという信仰のゆえに、パウロは人々に自分と同じ恵み、キリストの十字架による新しく生まれる恵みを生きてほしいと大胆に伝えることができたと思うのです。
 それから、パウロが真の復活を経験した人であったから可能な言葉でした。復活を経験したという言葉は自分がイエス・キリストの真理のうちにある限り、死んでも死なないということを全人格をもって確信して生きるという意味です。復活を体験した人はこの世が与えようとする屈辱を恐れません。使徒パウロは数えきれないほどの苦難を受けましたが、キリストに対する熱い情熱は少しも揺らぐことはありませんでした。むしろ彼は教会のためにキリストの残された苦難を身をもって満たすのが自分自身の望みであると言いました。
 死ぬことさえも彼の働きを邪魔することができないという真の命を抱いたパウロだからこそ、「わたしに倣いなさい!」と言えたわけです。本日、使徒パウロは現代の私たちに「キリスト者としてのアイデンティティ、クリスチャンとしての正体を確かなものにしなさい!」と勧めます。これこそ、イエス・キリストの御姿に変わるまで福音の御言葉の上にしっかり立ち、ひたすら十字架と復活の証人として生きること、天の御国にふさわしい民として備えつつ歩む者のもつべき生き方なのです。ハレルヤ!