2015.4.26

『 宣教、共感する力 』 (マルコによる福音書1:35〜39)
 父なる神とイエス・キリストの働きの中心は「共感する」ということにあります。罪人を救うために罪人の姿をもって尋ねて来られる方、泣く人と共に泣かれる方、喜ぶ人と共に喜ぶ方、病んでいる人をわざわざ訪ねられて癒してくださる方、子どもには子どもの目線を合わせてくださる方、これこそ「共感」の力でした。十字架の苦しみと死も私たちが味わうべき人生における最大の痛み、苦しみ、絶望であったことをすべて御身に引き受けて贖ってくださる!・・・これらは決して「共感する」力がなければできないものでした。
 イエス様の共感する力が最もよく知らされている聖書の箇所として、福音書の二つの場面が頭に浮かんできました。まず、4つの福音書全部に紹介されている五つのパンと二匹の魚の場面で、「多くの群衆がイエス様のところにやってくるのをご覧になって、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れまれた」とある場面です。ここで表現されている「深く憐れまれた」という表現はイエス様が人の為に癒される時や奇跡を起こす時に最もよく用いられている言葉です。特に、「憐れみ」という言葉は「内臓、とくに母の胎」から出た言葉です。すなわち、イエス様自ら群衆の飼い主を求める切なさ、その飢え渇きを、イエス様の「内臓が揺り動かされるように」共感しておられたということなのです。
 そして、もう一つは、イエス様の愛していたラザロが死んだ後、彼を復活させる場面で、「イエス様が涙を流された」とある場面です。イエス様は神様ですから、人を癒すことも、死んだ人を甦らせることは可能だったのでしょう。しかし、イエス様はマリアと人々の人生における悲しみと涙をご覧になりながら、イエス様が彼らと一緒に涙を流されている、このようなイエス様の共感の力が私たちにどれほどの慰めとなるでしょうか。
 本日の聖書箇所においても同じです。イエス様が福音を伝え、病人たちを癒し、悪霊を追い出すという、休む間もなく忙しい日々を過ごしておられる時の御姿を描いています。そこで、わたしたち宣教への新しい視点を教えられます。いつも身の周りだけに止まろうとしないで、真の飼い主を待っている場所へ、あなたの共感を待っている人たちの方へ出かけていくということ、それが宣教なのです。2015年度の小泉町教会の新しい歩みが、共感する力をもって宣教を続けられたイエス様の姿に倣い、一人一人を大切にしつつ救いの喜びに満たされますように・・・。ハレルヤ!