2015.5.3

『 与える幸い 』ヨハネによる福音書6:53〜57)
 世界が悲しみで叫んでいます。ネパールで起きた大地震アメリカのボルティモアから始まった暴動、世界規模のテロや戦争。そんな中、ゴールデンウィークで賑わう人々を黙想しながら、イエス様から頂いたメッセージが「与える幸い」でした。「受けるよりは与えるほうが幸いである」(使徒20:35)
 与えるのは神様の本質です。神は罪人であったすべての人のために、惜しまず与えてくださいました。太陽や雨、すべての自然の恵みを反逆したわたしたち罪人に与えてくださいました。そして、何よりも尊い神の独り子までも、私たち罪人を救うために惜しまず与えてくださったことを聖書は宣言しているのです。イエス様は公の生涯を通して、いつも弱い者を慰め、彼らの友となってくださいました。病人たちを癒し、罪人たちを救ってくださったのです。貧しい人には満たしてくださいましたし、お腹の空いていた人たちには溢れるほどのパンを与えてくださいました。そして、最後には十字架の上でご自身の命までも与えてくださったのです。次の言葉は「与えることの幸い」について語られたイエス様の約束の言葉です。 
マタイ20:28「わたしは仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金(贖い)として自分の命を献げるために来たのだ。」、マタイ10:42「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」、マタイ25:40「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」 ここで、「小さな者の一人」という言葉は与え施すことは誰でも日常的にできるやさしいことだという意味があります。何か構えて無理して与えることはイエス様の御心とはかけ離れているものです。イエス・キリストの命によって生まれたキリストの教会、キリスト者一人一人に、イエス様は恵みを受けた者として、与える幸いを生きなさいと望んでおられます。与えることが日常化されている教会やキリスト者こそ、真に神様の恵みを自然と世界へ流していけるのです。
 本日は、主の晩餐式を執り行います。主の晩餐式こそ、すべてを与えられたイエス様の愛の印です。主の晩餐を通して、すべてを与えられるイエス様、私たちの内に、いつも共におられる神であることを確認することができますし、受ける恵みから与える幸いを知ることになるでしょう。ハレルヤ!                     
「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は幸いです!」