2015.5.31

〜 路傍伝道の難しさ 〜
 先週はペンテコステの日でもあり、昨年から計画し進めていた路傍伝道に出かけました。今回は4人だけが行ないました。駅の前でそれぞれ分かれて両手にギデオン聖書に教会案内を挟んで配りました。
 新しくなった富山駅はたくさんの人が駅の方へ、また駅からそれぞれの帰りへ忙しく足を運んでいました。通りすがる人々に「聖書、バイブルです。ぜひ、読んでみてください。」と声をかけながら聖書を渡すと多くの人が見向きもせず、無視したり、ある人たちは嘲笑ったりもしました。いくらキリスト教の牧師であっても何度も無視されたり、拒まれると気分はよろしくありません。それでも最後まで笑顔を忘れず配り続けました。
 駅前だったからなのか重い荷を背負っている方も結構いましたね。そして一つ気になっていたのが、暑さや強い陽射しのせいかもしれませんが歩く人々の顔が暗い!という個人的感想でした。人間の人生について問われる根本的問いとして、「人はどこから来たのだろう、どこに向かっていくのだろうか、人生の目的は何なのか」があります。その答えを見つけるために人々は 真理を探す旅を続けていることでしょう。旅にでかける人、旅から帰ってきたばかりの人、そして重荷、暗い顔を見つめながら私の心に浮かんでくる御言葉は「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28〜30)でした。
 路傍伝道の難しさを通して十字架のイエス様が人々から拒まれ無視されたことを確かめながらも、街の人々への「イエス様の深い憐れみ」をくださるようにと祈りつつ、イエス様の手となり、足となることをもう一度心に刻む神の家族、小泉町教会のキリストの群れでありたいものです。シャローム