2015.6.7

〜私の戦争体験記〜
 1945年5月19日。野菜の苗に水を注いでいた。警報が出たと同時にドド〜ドドドとB29の爆撃、庭の防空壕に親子6人が転がり込むように避難した。母は生まれたばかりの弟を抱いていた。壕がミシッと崩れ私たちは生き埋めとなった。父ががれきの棒で出口を突いて穴をあけたので脱出し、道路のガレキの上を爆弾が落ちる中、近くの小高い山にある横穴に避難できました。我が家の裏から火の手が上がり、私の生まれた町は火の海になった。母が「父ちゃん、父ちゃん、おむつ、おむつ」と叫んでいたのが今でもはっきり私の耳に残っている。小高い山の上から燃え盛る町を眺めながら、私は友達とただ泣いていた。
 5月の空襲で家を焼かれ、近くの空き家を借りた。毎日のように警報が発令され、生きた心地もない。両親は子供4人を抱えて、どんな思いでいたのだろうか。母は乳が出なくなっていた。牛乳の配給で弟に与えていた。6月18日の未明、父の「起きろ、起きろ」の声。向かい側の家屋が燃えていた。北へ、北へと火の中をくぐって逃げた。途中、私の学んだ小学校も燃えていた。この日、浜松市焼夷弾で全焼した。上空は真っ赤になって花火のように、焼夷弾が地上に降ってくるのだ。夜明け、焼け野原になった町に戻る途中、数名の焼死体に出会う。きっと逃げ遅れたのでしょう。
 戦争のない世界を祈り求めます。
                   T.K 姉