2015.6.7

 『 差別のない神のの愛 』 (ローマ3:22〜25、マタイによる福音書5:45)
 最近の楽しい聖書の学びでは、ローマの信徒への手紙を学んでいます。パウロがローマにいる信徒たちにキリスト教の大切な福音の真理について語っている内容ですが、その中で最も強調されていることが、「律法か恵みか」です。ユダヤ人たちは神から律法を授かった民として、選民意識という優越的信仰をもっていました。そのため、ユダヤ人を除いた異邦人は救われないし、救われるためには律法を守らなければならないし、割礼を受けなければ救われないという確固たる信仰をもっていたのです。
 しかしパウロは形式的な律法信仰に立っていた人々に「ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのだ。正しい者は一人もいないし、罪ある人間は神の栄光を受けることはできない」と言い、ユダヤ人が誇っていた律法についても「律法によっては罪の自覚しか生じない」という衝撃的な宣言をするのです。そこでパウロは、「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされる。このイエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに差別のない神の義が与えられるのだ。」と、神がすべての人を救おうとされる道を提示しています。
 わたしたちはここで、「差別がない」と「無償で義とされる」という御言葉に大きな慰めをいただきます。人種や国、民族、性別、健康、知識、権力、お金などで常に差別する基準を設けている人の義とは違って、すべての人が神の御前で同じく罪人であり、神は決して人を外見の壁などで分けたり差別したりする方ではないことをはっきりと示しているのです。しかも、差別のないだけでなく、すべての人にはイエス・キリストの十字架の死による贖いと救いの道が「無償」で与えられていると宣言します。そうです。神の愛はアガペー、無条件の愛であり、人の努力や資格などによって判断され与えられるものではないのです。大切なことは、「差別のない無償で与えられた神の義」を、信仰をもって受け入れるか否かなのです。多くの人が、神が恵みによって与えられるその義を躊躇し、受け取ろうとしていません。恵みによって与えられた神の義を自分のものにするためには、神の差し伸べられる御手をつかむこと、両手を広げているお父さんにありのまま抱かれることです。それが、信仰です。ただ信仰によって神の前に進み出ていく時に、救いを得るのです。