2015.6.14

 神と共に歩む幸い 』(創世記5:21〜24、ヘブライ人への手紙11:5〜6)
 本日私たちは「幸いな人」として紹介されているエノクについて分かち合うひと時を過ごすことになります。聖書が紹介しているエノクは、他の偉大な人物のように奇跡を行なったり、神秘的な力をもっていたりしたことは一切記されていません。ただ、「神と共に歩んだ!」という一言だけがエノクの生涯をまとめているのです。エノクの名前の前後に紹介されるイスラエルの祖先たちは、ただ名前と何歳に「死んだ」という言葉でその生涯の記録がとじられているのに対して、エノクについては、「神と共に歩み」という言葉が二度繰り返されていることと、「死んだ」という言葉でなく、「神が取られたのでいなくなった」という表現で終わっていることが強調されていることに注目すべきところです。
 エノクの時代は、ノアの時代とさほど違わず、神の前で罪を犯し堕落を極めていた時であったでしょう。そんな中、自分自身の信仰を貫くということは決して容易なことではなかったはずです。しかし、彼はそんな時代に神に喜ばれる人として生きることができました。その理由こそ、「神と共に歩んだ」からなのです。
 まさにエノクは地上の生涯において最も優れた黙想者でした。彼はこの世の生活においてひたすら神に集中しました。彼こそ、わたしたちが常に心がけている「ディボーション」の祝福を実際に味わっていた幸いな人だったのです。私たちは誰かと共に歩む時、必ず会話をします。エノクは、神と共に過ごす時間を、神と楽しく会話しながら過ごしていたことでしょう。イエス様がみんなの寝ている間の朝早く、静かな場所を探して祈られたように、あるいは、仕事の合間、また、一日の仕事を終えて沈み行く夕日を眺めながら一日の感謝と感動を神と語り合ったことでしょう。エノクはそのように神の臨在に触れながら周りの誰も味わっていなかった「神と共に歩む至福の幸い」を過ごしていたに違いありません。「神と共に歩む」ということをヘブライ人への手紙の記者は「神に喜ばれていたこと」(ヘブライ11:5)と説明しているのです。神と共に歩みつつ、自分勝手な方向に歩むなどということはあり得ません。人間同士でも、一緒に歩くという事は、相手のペースや方向に合わせることです。エノクは、神の御心を知った時に、自分の道を主張しないで、御心に従い神様とペースを合わせて歩み続けました。それを神は喜ばれたのです。神の家族一人一人もエノクのように、神と共に歩み続ける幸いな人生となりますように・・・。ハレルヤ!