2015.7.26

 『天に向かう祈り』(マタイによる福音書6:5〜10)
 主の祈りはキリスト者の祈りにおける永遠の模範であり、祈りの標準であります。イエス様が9節で「だから、こう祈りなさい。」と命じておられることから、祈りに生きようとするキリスト者であれば、イエス様が教えてくださった「主の祈り」の内容から外れることなく、主の祈りに約束されている恵みをいただくことになるでしょう。だからと言って、わたしたちの祈りをまったく主の祈りと等しくすべきであるという意味ではありません。イエス様は祈りについての一つの模範として、キリスト者の祈るべき内容について示されたのであって、呪文を唱えるようにすることは決して祈りではないからです。
 わたしたちは祈る時、二つのことを警戒しなければなりません。それは①偽善的祈り②異邦人のような祈りです。5節の「偽善的」と訳されている言葉はもともとは舞台でさまざまな役を演じる「俳優」を指す言葉で、それが後に、敬虔な姿を「演じている者、偽善者」となったわけです。当時のファリサイ派の人々の姿がまさにそうでした。偽善者たちの祈りの目的は祈りや祈っている自分を人に見せることにありました。また、異邦人のように祈るとは、意味のない言葉をくどくどと祈ることです。当時の異邦人世界における祈りは魔術的な呪文を熱狂的に唱えることにありましたし、その姿に人々は魅力を覚えていたと言われています。これらの祈りが目指しているのは人々の目、ご利益と言った「この世、地の国」における欲望です。
 しかし、イエス様が主の祈りを通して示される祈る人の目が向かうべきところこそ、天、神の国にあることを覚えましょう。9〜13節の主の祈りの始めと終わりはただひたすら神の栄光を求めているのです。すなわち、天の父の御名が崇められることを求める祈りで始まり、神の国と力と栄えとは限りなくあることを望む祈りで終わっているのです。特に10節を見ると、「天において御心が行われたように地の上においても行われることを祈りなさい!」と命じておられます。わたしたちの思いや願いでなく、父なる神の御心がこの地、わたしたちが今生きている地において行われるように求めること、それが真の祈りであって、それこそ祈りの中心とならなければならないのです。そうです。わたしたちの祈りはわたしの思いを貫き通すことではありません。ただひたすら神の御心が成就すること、神の御心にわたしの思いや願いを合わせることなのです。今あなたの祈りが向かっているところは「地、地の国」でしょうか、「天、神の国」でしょうか。