2015.8.16

『 傷ついた葦、くすぶる灯心 』(マタイによる福音書12:9〜21)
“彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない。異邦人は彼の名に望みをかける。”(20節)

 「葦」は、聖書時代のエジプトやパレスチナ地方に多く見られていた植物です。弱くて風によく揺れ動いていた葦は、聖書の言葉はもちろん、様々な文学の中においても、特に弱い人間の姿を表現する時よく使われてきました。しかも傷ついて折れそうになってしまった葦はどこにも使い道がありません。そのまま捨ててしまってもおかしくない。それが罪の中で傷ついているわたしたちの現実なのです。
 そして、「くすぶる灯心」。当時のイスラエルの民の生活において無くては成らない物の一つが「灯心」でした。この灯心も、当時の聖書時代や古代の文学によく用いられていた表現で、人間の希望、命を表すものでした。特に今日の言葉の「くすぶる灯心」というのは、わたしたちもよく使っている「風前の灯火」というコトワザと殆ど同じ意味をもっています。・・・夜は深くなりつつあるのに、先ほどまで周りを照らしていた灯が、風に覆われて、だんだんと勢いを失い、今にも消えてしまいそうになっている。そのような「灯心」の姿にわたしたち人間の弱さを見出すことができるのです。聖書の手の萎えた人のように…。
 今わたしたちを取り囲む現実は、少し傷があったら折って捨てられてしまうような社会、一度失敗してしまったらもう待ってもらえず、可能性が見えなければその希望の灯りさえも消されてしまうような状況です。すなわち、「傷ついた葦とくすぶる灯心」とはあなたとわたしを指す言葉なのです。しかし、イエス様は傷ついた葦のようなわたしたちを折ってしまわれたり、消えてしまいそうなわたしたちの灯りを消されません。むしろ、わたしたちを訪ね手を差し伸べられますし、イエス様自ら十字架にかけられ、傷つけられ、十字架にかけられ死ぬことによって、折れた葦のようになられ、くすぶる灯心のようになられたのです。しかし、イエス様は決して折れたり、消されたりすることはありませんでした。かえって、十字架の死を打ち破り、復活されることによって、わたしたちの傷を癒す命、どんな力でも決して消すことのできない希望の光となってくださいました。
“どんな傷でもいい、どんな失敗でもいい、どんな罪でもいい、人生の灯りが見えなくてもいい。ただ、わたしのところに来なさい、そして癒されなさい。”と温かく声をかけてくださるイエス様に助けを求めることです。