2015.8.23

『あなたを決して見捨てない』 ルカによる福音書15:1〜7)
 聖書の多くの箇所において、羊飼いと羊の間の関係が神と人間の関係に用いられ記されています。詩篇23篇などはその代表例といえるでしょう。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」か弱い動物である羊は、羊飼いの導きがなければ生きることができません。食物も、移動先への導きも、外敵からの守りも全てを羊飼いに完璧に依存しています。イエス様は「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」(ヨハネ10:14)と言われました。主が良い羊飼いであられるように、私たちは主の羊であります。本日の聖書箇所はそのような羊と羊飼いのたとえ話です。
 ルカ15章ではイエス様は立て続けに3つのたとえ話をされます。①「見失った羊」のたとえ、②「無くした銀貨」のたとえ、そして③「放蕩息子」のたとえです。これら3つのどれも全てが無くしたものを見つけた喜びについてイエス様は語っておられます。それぞれの例え話は異なった状況を背景にしていますが、一つの明確な主題があることが分かります。
 もし皆さんがこの羊飼いの立場だとしたらどうするでしょうか?一匹の羊を探すことでのこりの99匹を失う可能性があるとしたら・・・たった一匹のためにリスクはおかせない。この残りの99匹と安全に帰ろうとするでしょうか。しかしこの羊飼いはそれでもなお、危険を冒してリスクを承知の上で、しかも見つけ出すまで捜し回るのです。イエス様は羊である私たちを必死になって探して下さるのです。たとえどれだけ迷子になって道を見失っていたとしても、たとえもう長い間道を見失って帰ってこなかったとしても、イエス様は必ず見つけ出すまで探し続けて下さるのです。イエス様は決して見捨てないお方です。神の人間に対する愛は計り知れないほど大きく、神は1人1人を探し出し見つけるとき、大いに喜ばれるのです。もう望みがないと思われるこの日本の人々にも神の福音をもたらすため、今日も主はその迷子の1人を探しておられます。そして、決して見捨てることなく探し続けて下さるのです。     
                                              宮田祐亮 神学生