2015.8.30

『 証しのある生活 』(ヨシュア4:1〜7)
 エジプトを脱出した、イスラエル共同体の40年間の荒野の生活が終わりました。モーセをはじめとする、エジプトを出た時の第一世代は、ヨシュアとカレブだけを除いて荒野で死んでいきました。エジプトの記憶を持っている大人はほとんどいなくなり、荒野で働かれ導かれた神を、身をもって体験した新しい世代が、いよいよカナンの約束の地に入ろうとしています。
 しかし、彼らの前に立ちはだかるのは、堤を超えて満ち溢れるほどになっていたヨルダン川でした。その時、ヨシュアとカレブは、40年前のエジプトを出る時の神様の大いなる御業を思い巡らせていたことでしょう。ヤハウェの神は、モーセを通して葦の海の水を涸らし、二つに分けてくださるという大いなる奇跡を成し遂げられたことで、イスラエルを、エジプトのファラオの手から救い出してくださいました。そして、40年前と同じ神が、同じようにヨルダン川を分け涸らしてくださるという出来事を、ヨシュア率いる第二世代のイスラエル共同体にも成し遂げられたのです。40年前と違っていたのは、モーセの杖でなく神の臨在を表す契約の箱が、役割を果たしていることでした。そこで、神はヨシュアに、「各部族から一人ずつ、計12人を選び、川の真ん中で石を取ってきなさい」ということを命じられます。ヨルダン川の真ん中から取ってきた12の記念の石の意味は、「神が先祖たちをどのように守り導いてくださったのかについて、後の世代に証しし、彼らの信仰を奮い立たせる役割を果たすこと」にありました。
 わたしたちの信仰における記念の石、神の不思議な導きを思い起こさせてくれる記念の石はあるでしょうか。その石は、あなたの人生が苦しみに遭い落胆してしまいそうな時に、あなたと共同体を励まし、信仰を甦らせてくれる役割を担う力となるでしょう。そのような信仰の記念と記憶と証が多ければ多いほど、わたしたちの人生の日々は豊かになるでしょう。もちろん、美しく胸が熱くなるような記憶ばかりではないでしょう。失敗と挫折の記憶も当然あるでしょう。しかし、聖書はその都度、神がその時、どのようにわたしたちの人生に介入されたか、人間が台無しにしてしまったことを神はどのように変えられ、導かれたのかを証してくれるはずです。
 今日、わたしたちは、どのような物語を作りながら歩んでいるでしょうか。誰かに聴かせるほどの証しや物語をもっているでしょうか。特に、神様との信仰に関する証しはいかがでしょうか。「証し」のある人生は幸いです。