2015.8.30

〜 神の時、神のタイミングを選ぶ訓練 〜
 故郷で夏の休暇を過ごしながら何度も考えさせられたのが「神の時、タイミング」についてでした。特に、青年期を共に信仰していた人たちとの交わりを通して、それぞれの人が、神の時を必死に求めながらも、ある人は神の時を間違えて急いでしまったことで失敗を味わっていたり、また、いつまでも神の時を待っているといいながら、一歩も前に進めなかったりしているグループもいました。それから、「今こそビジョンを具体的に実現すべき時だ」と思い、情熱に燃えていた人たちがいる反面、同じグループに属していながら、「今は神の前で悔い改める時であって行動に移す時ではない」という人たちもいました。
 神の時は、わたしたち神の民が神の備えられた恵みとチャンスに出会う時であり、場所です。神の時とは、時間の概念だけでは説明できません。神の人格と神の計画が、時間と空間を通して組み合わされていくものです。求められるのは、神の時に対するわたしたちの信仰と選びと冒険なのです。
 わたしたち小泉町教会の群れは、「神の時」にどれほど敏感でしょうか。神のカイロス、神が主導的に成していかれる御業の前に、神より先を歩もうとしないことです。常に神の御手に期待を抱き、神の御心に羅針盤の針を合わせる心備えが求められます。
 新学期を迎える神の家族の群れが、神の時とタイミングを選ぶ練習をする中、成熟した父なる神との交わりの恵みに与ることになるでしょう。