2015.9.6

『 地に住む人たちの祈り ① 』(マタイによる福音書6:9〜13)
 「主の祈り」の前半を通して、天の父なる神と天の御国を見上げる祈りを教えられたイエス様は、後半の祈りを通して、地に住む者として祈るべきことを教えてくださいます。その最初の祈りです。
 「わたしたちに必要な糧を今日与えてください。」(11)
 キリスト者はしばしば誤解してしまいます。それは、信仰が成熟していけばいくほど、人間としての欲や本能を徹底的に捨てなければならないし、この世との関係を切らなければならないという思い込みです。肉体的なことはできるだけ、遠ざけることが神に近づく道であると思うのです。だから、禁欲主義や経験主義などをもっと尊いキリスト教の信仰する姿であると考えてしまうのです。しかし、成熟した信仰、正しいキリスト者霊性とは肉体とこの世界を否定し、目をつぶるのでなく、むしろこの世における生活、神から与えられた体と世界を大切に思い、その中で神の栄光を現しつつ、神の導きと助けを慕い求めて生きることです。イエス様はこのことを確かなものとするために、まず、「今日の必要な糧を与えてください」と教えておられるのです。
 それでは、ここで語られている「糧」とはどのような意味でしょうか。この「糧」という言葉は、ギリシャ語で「アルトン」といいまして、これはより広い意味での「命を維持するために必要とされるすべての食物」を指します。しかし、ここで強調されている大切なポイントが「今日の必要な糧」という言葉です。すなわち、今日という限られた時間に必要とされる最小限の量を意味しているのです。祈りとは必要以上の欲を求める貪欲さではなく、わたしたちに必要とされている分への神の恵みを乞い求めることです。
 次に、イエス様はキリスト者と教会の祈りは「わたしの糧」でなく、「わたしたちの糧」を求めることと教えられます。すなわち、わたしだけが良く食べて、わたしだけが豊かになることを求める祈りは神の御心にふさわしくありません。主の祈りの中で、後半の人のための4つの祈りについての対象がすべて「わたし」でなく「わたしたち」であることを心に刻むべきでしょう。常に自分のこと、自分の家族や身の周りだけを求める利己的信仰でなく、共同体的、世界的意味としての「わたしたち」が共に神の恵みに生きることを望んでおられるのです。  本日、わたしたちは主の晩餐式を執り行います。主の体と血潮を分かち合うことこそ、「わたしからわたしたちへ」と広がる恵みの証しであり、永遠になくならない日ごとの真の糧であることを確かめたいものです。