2015.9.20

 『 赦し、赦される幸い 』(マタイによる福音書6:12〜15)
“わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。”(6:12)
 聖書は、「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています。」と、また「罪の代価は死です。」と宣言します。その通り、罪の中で死んで滅びるしかなかったわたしたちのために神の独り子イエス・キリストが十字架にかかり身代わりとしてすべての罪を贖ってくださったのです。そのキリストの愛の犠牲によって、わたしたちは罪の奴隷という身分から神の子どもへと、死から永遠の命へと変えられたのです。
 それなのに、イエス様はなぜ主の祈りで、「わたしたちの負い目、わたしたちの罪を赦してください」と祈ることを命じておられるのでしょうか。実は、ここで語られている負い目、その罪とは、「ハマルティア(神に自由意志をもって反逆する根本的な罪)」ではなく、借金を返済していないという債務、しなければならないことをしなかったという負い目を表す言葉なのです。すなわち、イエス様から驚くばかりの恵みに与った者として、わたしたちは毎日の生活における負債意識の中で神の助けと赦しをいただく必要があるのです。ですから、ここでの「わたしたちの負い目の赦し」の祈りは、私たちの救いに関わる祈りではなく、毎日の神の前で犯してしまう罪を赦していただくことを指しているのです。イエス・キリストを受け入れた者は、既に十字架の血によってきれいに体を洗っていただいた者です。しかし、この地を生きながら、わたしたちの足はまた汚れてしまいます。その汚れた足を洗わなければならないのです。そのような日常の罪、毎日の生活の中で犯す罪を赦していただくための祈りをイエス様は教えているのです。
 わたしたちは赦された罪人であると言われています。キリストの前に自分を正しいと誇ることのできる人はこの世に誰一人いないはずです。だからこそ、わたしたちは「わたしたちに負い目のある人を赦す」ことができるのです。赦してこそ分かるのが赦される恵みです。赦してこそ、イエス様の十字架の愛の大きさが分かりますし、赦してこそ、日々その恵みに生きることができるのです。
 愛する神の家族のみなさん、毎日一日を終える時、一日を振り返りながらイエス様の前で聞いてみましょう。「今日犯したわたしの負い目は何なのか」、「わたしが今日赦していない負い目のある人はいないのか!」と。毎日、神と人のとの関係の中で赦し、赦されることを生きる人は幸いです。