2015.10.4

『 誰のために生きていますか 』 (ローマの信徒への手紙14:7〜9)
 教会共同体の構成は、赤ちゃんからお年寄りまで、病気の人から健康な人、貧しい人から富んでいる人、あらゆる人種、国民、言語の人々をも含んでいます。そこには何の差別も、優劣も存在しません。なぜならば、すべての人はイエス・キリストが十字架の上で賜ってくださった命の代価が払われた尊い存在であり、神の子どもであり、だから誰一人としてこの世の基準によって判断されることがあってはなりませんし、存在そのものが大切であって、目に見える世俗的な何かの基準によって、区別されることがあってはならないからです。
 使徒パウロは、ローマ教会に存在していた二つの葛藤を挙げながら、共同体における信徒たちが持つべき姿勢について教えます。二つの葛藤というのは、「食べ物」と「聖なる日」の問題でした。特に、この二つの葛藤は信仰の強い人と弱い人との間のものでした。信仰の強い人たちにとっては恵みであったものが、信仰の弱い人たちにとっては負担となり、罪意識に捕らわれるようなものに変わっていたのです。そこで信仰の強い人は弱い人を裁き、反対に、信仰の弱い人は強い人を裁くという事態になっていたのです。そこで、パウロは一人一人の主人であり、一人一人の信仰を導いておられる主イエスの主権を互いに認めるならば、決して、他の信徒の信仰を批判することがあってはならないと語ります。そこで語られた言葉が、“生きるにしても、死ぬにしても「主のもの」として、「主のため」である”という、本日の聖書箇所でした。
 キリスト者とはイエス・キリストの歩まれた道に従う者です。すべての基準になるのが、イエス・キリストです。イエス・キリストが大切にされていたことを大切にし、イエス・キリストの目が向かわれるところに目を向けます。
 神が信仰の強い人たちに求められることが、他の人にも全く同じく適用されると考えてはいけません。「違い」も、実は主の祝福であることを知り、ありのままの兄弟姉妹を愛し合うことです。自分自身を基準とするのでなく、相手の基準に立って考えてみることを心がけることです。「生きるにしても、死ぬにしても主のために」、常に、“イエス様だったらどうされるだろうか”と問いながら生きることです。ハレルヤ!