2015.10.18

『 神の時を選ぶ人は幸いです 』(コヘレトの言葉3:11、ルツ記1:1〜6)
 士師時代を背景としているルツ記は、イスラエルに大変な飢饉が襲ってきた場面から始まります。ルツ記の登場人物たちは、この飢饉によって人生の逆転を経験します。そして聖書は、ルツ記を読むすべての人に向かって、“あなたの人生においても同じく、突然訪れる飢饉のような試練に遭うこと”を教えています。誰でも人生における試練や問題に遭います。問題なしに生きる人は一人もいません。若者は若者なりに、年寄りは年寄りなりに、男は男なりに、女は女なりに、子どもは子どもなりに問題に直面しながら生きるのです。
 特に、人生の飢饉は誰も避けることのできない人生の一部分であることを聖書は教えます。しかし、人は自分の人生にこのような飢饉の時が訪れると、それを災いと思い、失望し躓き倒れてしまいがちです。なぜでしょうか。それはその飢饉こそ、偶然に自分の身に起きた不幸であって、自分こそ、運の悪い者だと思い込んでしまうからです。しかしいかがでしょうか。イエス様の教えに耳を傾けましょう。“二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。”(マタイ10:29)
 わたしたちの生きているこの世において、偶然に起きることはひとつもありません。たとえ、わたしたちの人生が不幸の連続のように見える時でもそうです。ぜひ覚えましょう。自分の人生が、望んでいない数字ばかり出てくるサイコロのように、運のない人生のように見えても、すべてのことは神のなさることであり、その方の計画に従って成し遂げられるということを!ですから、神の時を知るために知っておくべきことは、「わたしたちの生きているこの世界には偶然はない」という事実です。わたしたちの神は時間の主人です。わたしたちの時間の中には、神の品性と計画が秘められています。その時間の内に秘められている神の品性は、わたしたちに恵みとして現れ、時間を通して展開される神の計画は、わたしたちにチャンスとして訪れてくるのです。
“人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩を備えてくださる。”(箴言16:9)
 これからわたしたちはルツ記を中心に「神の時」について、また「神の時をどのように選ぶべきか」について学んでいきたいと思います。この世の人たちは目に見えるものをすべてと思い、目に見えるものに捕らわれて生きていきます。しかし、わたしたちは信仰の目をもって、目に見えるものの背後で働かれる神を見ることを第一として生きるのです。あなたは神の時を生きていますか、それとも目に見えるこの世の時を生きていますか。わたしたちの人生は神の御手の中にあり、神はすべてを神の時に適って変えていかれるのです。求められるのはただ一つ、神への信仰です。ハレルヤ!