2015.10.25

 『 十字架、神の愚かさ、神の弱さ 』(Ⅰコリントの信徒への手紙1:18〜25)
 「Ⅰコリントの信徒への手紙」を通じてパウロは自らを、時には牧者として、時には兄弟として、時には父親として表現しています。それほどコリント教会との関係が格別であったことが分かります。一年半という長い時間を注ぎ、命の危険にも妥協せず福音の教えを尽くしたコリント教会でした。ある面、他の教会はともかくコリント教会だけは失望させるはずがないと思っていたパウロだったのかもしれません。ところが、パウロが耳にしたコリント教会が抱えている問題は、他のどこの教会よりも深刻で厳しいものでした。コリント教会の抱えていた問題としては、「分派問題、近親間の姦淫、不品行、結婚の是非、偶像に捧げた肉の問題、異言問題、復活否定の問題」など、教会内に起きそうな問題はほとんど起きていたと思われますし、かなり深刻な状況であったことが分かります。これらの問題に対して、パウロが切なる思いをもって書いたのがⅠコリントの信徒への手紙です。
 「幸いな人が集う幸いな教会」を目指すわたしたち小泉町教会は、これからしばらくの間コリント教会に宛てられた手紙を学ぶことで、この小さな群れに求められる主の御心と、目指すべき教会共同体の姿に少しでも近づけたらと願っています。
 本日は宗教改革記念礼拝です。毎年この時期になると、牧師としての心の負担があります。なぜならば、今わたしたちの信仰と、わたしたちが立っている場所を、正しく見つめなければならないからです。すなわち、今日のキリスト教会は、宗教改革の命と使命に正しく立っているのかという、教会のアイデンティティーを確かめる必要があるでしょう。当時34歳の若き神学教授であったマルティン・ルターが、ヴィッテンベルク城内の教会の扉に、カトリック教会の免罪符販売に反対する95箇条の論題を掲げた時の、その悲壮な心と揺るがない信仰を、今を生きるわたしたちが、生活の中で抱いているかが問われているのです。ルターは、後にヴォルムス帝国議会に召喚され、今までのすべての発言の取り消しを求められました。しかし、彼は断固として言います。
 「わたしの良心は神の言葉に拘束されているので、これらのどの書物も撤回することはできないし、することを欲しない。なぜならば、良心に反することをするのは安全ではないし、危険であるからである。・・・わたしはここに立っている。わたしは他のことをすることはできない。神よ、わたしを助けてください。アーメン」
 今、私たちに求められるのは、十字架の精神を回復することです。これこそ、クリスチャンの信仰の源であるからです。コリントの信徒への手紙の中でパウロは繰り返し十字架を誇り、十字架の精神を述べています。
 「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」(18)パウロにとって命となり力となったのが十字架につけられたイエス・キリストでした。十字架を除いては彼の人生を語るものはなかったのです。それはマルティン・ルターもそうでしたし、イエス・キリストを救い主と信じ、その後を歩もうとするすべての人においても同様です。十字架の言葉はあなたを生かす命、日々の力となっていますか。