2015.11.15

『 わが子よ 』(箴言3:1〜12)
 本日の箴言の言葉は親がこの世を歩み終え、愛する子どもに「これだけは忘れないでほしい、これだけは残してあげたい」ということを、一言一言、心を込めて大切に伝えている内容となっています。特に、初めには「こうしなさい!こうあるべきだ!」という6つの勧めの言葉が来て、その後に「そうすれば」という約束の言葉が来るというパターンが繰り返されているのが特徴です。しかもその約束の言葉がとても具体的であることに目が留まります。
 神の戒めである「御言葉を守る」とは、“心から神を信じ、神を愛する、御言葉を尊び生活の中に実行する”ということまでをも含むのです。ここでわたしたちは、人間が神の愛から離れ、神の御言葉に反抗した時から人類の犯罪が始まったことを心に留めなければなりません。
6節の「常に主を覚える」とは、“常に主を認める”と訳することができます。ヘブライ語では「ヤダー」で、「経験を通じて得る知識」、「目で見て確かめる」、「心を注ぐ」という意味を持っています。すなわち、わたしたちの神が求めておられるキリスト者の姿こそ、“常に全身全霊を注ぎ、神の御声に注意を払いつつ、神を経験しながら生きること”なのです。そうです。わたしたちが神を認めるべき場所、神にすがるべき時は、すべての場所、いつもの時においてです。わたしたちが常に神に聞こうとしないならば、御声は聞こえてきません。わたしたちが神の知恵を求め、謙遜に神の御声に耳を傾け、聞こうとする用意ができている時に、神の働きは具体的に現れることでしょう。
 愛する神の家族の皆さん、イエス様は福音書の言葉の中で、「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」と言われました。これは、人それぞれが、人生の価値をどこに置くかによって、その人の人生が証しされるということを示しています。クリスチャンであるあなたの姿が、創造者なる神を常に認めて生きるかどうかをクリスチャンでない周りの人に見られているのを覚えることです。初代教会当時、アンティオキアに住んでいた信徒たちが、その姿を見た周りの人たちから「クリスチャン」と呼ばれるようになったことを忘れてはなりません。
 子ども祝福式を迎える子どもたちが、神の知恵や神の導きを粗末にし、この世の知恵と知識、この世の価値観に従って歩んでいくのであれば、子どもたちの姿から神の栄光はどこかに消えてしまうことでしょう。特に、日本社会という厳しい壁の中で生きるクリスチャン家庭において、信仰を貫き通すのはなかなか難しいことであります。だから、多くの子どもたちは中学校を卒業したところで、教会と礼拝から離れてしまうのが現実と言えるでしょう。どうすればいいのでしょうか。
 願わくは、わたしたちの子どもたち自らが「神を礼拝するために造られた存在」であることを覚えつつ、実生活において、まず、心を尽くし、思いを尽くし、命を尽くして神を愛することを選ぶ、また、人生のどのような場面に置かれても、すべては神の御手による出来事であることを信じゆだねる、そうした幸いな人として人生を全うできますように・・・。