2015.11.22

『 あなたは何を証ししますか 』 (
(Ⅰコリントの信徒への手紙2:1〜5)
 イエス・キリストを信じるキリスト者であれば、その人が誰であっても呼ばれるべき名前があります。「証し人」がそれです。証し人とは、自分が目で見て、耳で聞き、身をもって体験したすべてのことを、付け加えも取り去りもせず、人たちに証しする人のことです。キリスト者こそ、「自分の人生に神がどのように関わって下さり、助け導いてくださったのか、イエス・キリストの十字架と出会ってどのように変えられたか」そして、「今働いてくださる聖霊の助けと御業」を証しする人です。人たちは言うでしょう。“2000年も前に十字架の上で死んだ人が、今のわたしたちとどんな関係があるというのか”と。あなたはいかがでしょうか。あなたは何を証ししますか。
 本日の聖書には一人の証し人が登場します。そして彼の証しはとてもシンプルで明瞭です。
“兄弟たち、わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。”(Ⅰコリント2:2)・・・優れた言葉や知恵を用いず、十字架につけられたキリストだけを伝える決心をしたというパウロの証しなのです。実はパウロ自身、優れた言葉や知恵を用いることで失敗を経験しました。使徒言行録17章には知恵と哲学の都市であったアテネで宣教するパウロの姿があります。アテネに着いたパウロアテネの人たちが哲学的思考をする知識人であることをあまりにも強く意識して、彼のもっていた優れた知識や知恵を用いて福音を伝えようとしたのです。ところが、このようなパウロの試みは多くの実を結ぶことができませんでした。このアテネでの経験はパウロの宣教における方法や内容を大きく変える働きをしたことでしょう。次の宣教地であったコリントでは、福音を装った知識や知恵でなく、十字架につけられたキリスト、単純な福音のメッセージだけを伝えようと心に決めたパウロでした。使徒18章に描かれているコリントでのパウロの宣教は“メシアはイエスであると力強く証しした。”(使徒18:5)というメッセージに徹していたことが分かります。その結果、パウロはコリントで大変な迫害と苦しみに遭うことになります。その時の自分の状況をパウロは“そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。”(Ⅰコリント2:3)と振りかえっているのです。しかし次の言葉に耳を傾けましょう。“わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明によるものでした。それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。“(Ⅰコリント2:4、5)・・・パウロの信仰がもう一歩成長していることが分かります。わたしたち福音の証し人に求められるメッセージの内容がここに示されているのです。証し人としてわたしたちは何を証しすべきでしょうか。わたしたちの証しの内容は「十字架のイエス・キリスト」であり、「自分の弱さを通して働かれる聖霊、神の力」です。証し人になることは、ある面恐れであり、不安を覚えるようなことでしょう。しかし、弱さを隠そうとしないで、弱さを通して働かれる聖霊の知恵と力にすがることです。