2016.1.24

 〜 礼拝に生きる 〜
 毎週の土曜日の夜7時、主日礼拝に来られない二人の兄弟・姉妹と共に恵み豊かな夕礼拝の時を過ごしています。合わせて二人か三人の礼拝ではありますが、心から礼拝を喜び、御言葉に飢え渇いている皆さんの姿に感動と励ましを受けています。とりわけ礼拝から一週間を始めたいというお二人の礼拝者としての熱心さが夕礼拝の感動を大きくしているのです。
 当然のことではありますが、キリスト者の生活の中心は主日礼拝です。しかし神が求めておられるのは、主日礼拝という時間やタイトルではなく、主が喜ばれる礼拝を献げているか否かなのです。“まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。”(ヨハネ4:23) 今年の52週ある主日礼拝のうち、もう4週が過ぎています。残り48週。旧約時代の「安息日を心に留め、聖別せよ」と命じられた十戒の厳しさはありませんが、新約時代の主日礼拝はキリスト者にとっての魂の命にかかわるもので、昔の迫害の時代だけでなく、今現代における迫害の地においても主日礼拝は命をかけて守るほどの価値があることを心に刻みたいですね。
 日本社会や文化はこれからもわたしたちの礼拝生活を妨げることでしょう。またその背後で、悪しき力は忙しさや人間関係、将来への不安などを用いて神の家族を礼拝から離そうと絶えず試みることでしょう。それでは、これらの妨げや試みに打ち勝つにはどうすべきでしょうか。何よりも礼拝者としての救われた感動と霊と真を備え、「礼拝から始まり、礼拝で終わる一週間」を心がけることでしょう。礼拝こそわが命なのです。シャローム