2016.2.28

『主よ、どうかお助けください』(マタイによる福音書15:21〜28)
 最近のテレビニュースや新聞に目を向けるのが怖いです。ほぼ毎日のように子どもへの虐待と子どもの悲しき死のニュースが報道されています。しかも虐待する側が“親”であることに衝撃の大きさがあります。このまま行けば、ある人たちが言っているように、国が制度を作って、試験に受かった人だけに親の資格を与えるという、冗談のようなことが現実になるような時代が来るかもしれません。なぜ、ここまで親子関係が崩れてしまい、しかも可愛い幼子が虐待の対象となったのでしょうか。
 子どもを大切に思う親の心は世界のどの民族、どの国をも超えて同じです。特に子どもが病気になってしまった時の親の子への思いは言葉で言い表せない切なさがあります。
 本日の聖書には一人のお母さんが登場します。彼女について聖書には、「悪霊に取りつかれている幼い娘をもっているカナンの女」という紹介しかありません。彼女に夫がいたか、親族がいたかは定かではありません。恐らくやもめとして幼い娘を育てていたのではないかと思われます。
 そのお母さんはしつこくイエス様に近づきます。叫び続け、嘆願し、ひれ伏し、プライドを捨て、自分を無にしてイエス様にすがりつきます。その理由こそ「愛する娘の癒し」でした。本日の聖書の御言葉には「これでもか、これでもか」と拒むイエス様に対して、「にもかかわらず」という姿勢をもって後ろを向かないカナン人の一人のお母さんの愛の格闘が描かれているのです。
 本日の御言葉の中に見られるイエス様のお姿は普段聖書に描かれている愛に溢れているイエス様の姿から遠く離れています。いつも弱い人、疲れている人、貧しい人、病んでいる人に近づき、癒し、両手を開いて招いておられていたイエス様でしたが、不思議と今日は「無視し、厳しい言葉を投げつけ、差別されるイエス様」がそこにいるのです。なぜでしょうか。なぜイエス様はここまで一人のお母さんをいじめているのでしょうか。
 実は、イエス様は彼女の信仰を知っておられました。イエス様は彼女の信仰が小さな試練や試みに挫けないことを御存じで、彼女のもっている究極の信仰を引っ張り出そうとされたのです。その究極の信仰こそ、“わが子を癒し救ってあげようとした母の愛の上”で花を咲かせるものでした。今もう一度確かめるべきこと、“あなたは愛していますか!あなたは無視され、傷つき、無にされても、愛をあきらめませんか”ということ。イエス様こそ、あなたのために無視され、傷つかれ、無にされ、十字架の上で死なれても愛をあきらめませんでした。ハレルヤ!