2016.3.13

『自分の道を進まなければ』(ルカによる福音書4:35〜41)
 これから、イエス様は覚悟をもってエルサレムへ行かれます。過越の祭を祝うエルサレムの町に群衆の賛美を持って迎えられ、そのあと十字架にかかられるのです。本日の聖書箇所はその流れの中で起きたひとつのできごとです。イエス様はどう答えられるのか、今イースターの日曜日に向けて心の備えと黙想をするわたしたちがともに読んでいくことになります。キリストの弟子であるわたしたちがどう生きるかを見つめて、自分がどのように変われるか、どこを悔い改めることができるかを見出したいものです。
 イエス様はガリラヤ中の村々を回って、人を癒し教えを広めておられました。そこにパリサイ人が現れ、「領主ヘロデ・アンティパスがあなたを殺そうとしていますから、ここを立ち去ってください」と言います。イエス様はどう反応されるでしょうか。わたしたちの誰もが、いろいろな意味で、類似の状況に立ったことがあるはずです。命を狙われているとまでは言われなくとも、良くないことが起こる、問題が起こる、失敗する、と警告されることはよくあるものです。そのとき自分が、抱いた考えを全く変えてしまったり、受けた言葉を気にして物事が手につかなくなってしまうようなことも、多いのではないでしょうか。しかし、イエス様はつねに天の父のみこころに近くおられましたから、警告の言葉をふるい分けることができ、時間と力を使うべきでないものはハッキリと心得ておられました。そこで、世人の予想とは別の応じ方をされました。それは、ただこれまでのように自分の道を進み続けること。
 神はわたしたちひとりひとりを、またこの教会をも召し出されました。賜物も集められた経緯もいろいろのわたしたちが教会においてひとつになり、この富山で神のみこころのためにともに働くようにされたのです。わたしたちが担うべき神の御業の一部が何なのかを見出すのは、チャレンジでもあり特権でもあります。このレントの時期、わたしたちの頭や心の中でぐるぐる回っている声をじっと聞き分け、神に知恵を求めながら「聞くべきもの」と「やり過ごすもの」、「神からのもの」と「他からのもの」を区別できますように。イースターは新たにされるとき、贖いの時ですから、そこに向かって歩むわたしたちが、主のみことば「私は自分の道を進まなければならない」を確信をもって自分に適用できますように。  
                   ローラ・フーシー宣教師