2016.3.13

 〜 ゲッセマネの祈りから十字架へ進む 〜
 先週金曜日の3月11日、教会では5周忌を迎える東日本大震災を覚える祈りの時を過ごしました。 一日を通じて震災の被害に遭われた方々、今もなお悲しみの涙を流している方々のために心を合わせました。とりわけ今は受難節、イエス・キリストの受難を黙想し、十字架に至るまでの歩みを辿っている時でもあるため、災害に遭われた方々への執り成しは一層切なかったことでしょう。
 主イエスの十字架を通してあなたとわたしの罪と汚れ、弱さと痛み、絶望など人類が背負うべきすべての苦しみが解決され、救いの道が開かれるようになりました。神の独り子の十字架が背負えない問題はなく、十字架によって解決されない苦しみはありません。・・・しかし、その十字架の恵みは「祈り」がなかったら、すなわち「ゲッセマネの血の汗を流す必死の祈り」がなかったら十字架の恵みをいただくことはできなかったはずです。 神の独り子でさえ、御心に従う道を選ぶ決断を下すためには、祈りを通して神の御心を確かめなければならなかったのです。それほどゲッセマネの祈りは十字架を背負うためになくてはならない現場だったのです。
 2015年度の歩みを終え、新しい年度を迎えようとする小泉町教会の群れに求められることこそ、主イエスゲッセマネの祈りに倣うことであると信じます。近頃の水曜祈祷会のメンバーが10名を超えようとしていることは大きな恵みです。わたしたちがいかに素晴らしい計画と夢を描いていても、ゲッセマネの祈りがなければ決して前に進むことはできないはずです。新しい年度を始めるに当たって、“わたしたちの願いどおりではなく、御心のままに。”という祈りの姿勢をもって進み出、導きを希うことでしょう。シャローム