2016.5.29

 『 神の家に住む 』(詩篇84:1〜13)           
 先日、稲垣さんと敦賀の「人道の港ムゼウム」という小さな博物館を訪ねました。6000人のビザで有名な杉原千畝さんの発給したビザでヒトラーの魔手を逃れたユダヤ難民が、シベリア鉄道ウラジオストックまで来て、そこから敦賀に上陸していたことを知ったからでした。敦賀の市民はこれらユダヤ難民を受け入れ、宿を貸し、銭湯を提供し、病人の手当てをしたのです。安心して住む家がある、ということを、ユダヤ人の一人は「ここは天国だ」と言いました。
 家族がともに住むということがどれほど大切なものかを震災の現場からの報告で痛いほど感じます。家とは、ともに生きる場であり、命の交わりの場であるということです。
 今日のみ言葉を通して、詩人は、「神と共に一つの家に住むことが最高の幸せである」と言います。キリストがクリスマスに生まれ、私たちを迎え入れてくださいました。人が神の傍に住む、神と共に生きるということが、私たちにとって最高、最大の目的なのです。神と共に生きることなくして、他のことは全く色あせてしまうのです。
 神は、どんなに人間が反抗しても、私たちと共に住むということをあきらめないのです。神は私たちと共に住み、共に悩み、共に泣き、共に生きることを望まれます。
 神は新しく、「共に住む」ということを願われます。神は、内在する神として私たち一人一人のもとにやってきた!のです。それは「聖霊」と呼ばれます。この人は嬉しくて仕方ない!と喜びで顔を輝かせているのです。幸せだと言っているのです。誰かが、この人を見たら、「あなたはなぜ、そんなに嬉しいのですか?」と問わずにはおれないような幸いな人について語っているのです。聖霊が宿ってくださっているからです。
 あなたは何かをするためにここにいるのではありません。
ただ、神と共にいることが大事であり、神がそれを望まれていることが大事なのです。
 この箇所で住むということを「ヤーシャブ」という言葉であらわしています。意味は、一箇所に留まっていること、移住すること、座ること、何もしていないこと、結婚することなどです。端的に、一緒にいることが目指されています。あのザアカイはイエスを自分の家に迎えました。そうしたら、ザアカイは変えられてしまいました。
 神が私たちのところに来られ、内在する神、聖霊として絶対に離れない交わりへとわたしたちを導いておられるのです。
                                  田口 昭典