2016.6.12

『 ネヘミヤに学ぶ② 』〜御言葉に立って祈る人〜 (ネヘミヤ書1:1〜11)
 先週からネヘミヤ記を分かち合っています。ペルシア王の献酌官をしていたネヘミヤのもとに、祖国エルサレムの悲惨な状況を知らせるニュースが届きました。その知らせを聞いたネヘミヤは、座り込んで泣き、幾日も嘆き、食を断ち、天の神に祈りをささげはじめます。その時献げたネヘミヤの祈りは、今現代のキリスト者の祈りがどうあるべきかについて模範を示してくれます。とりわけ執り成しの祈りが何であるかについて知ることができます。
 先週分かち合ったように、ネヘミヤは神を賛美した後、自分の罪、父の家の罪、イスラエル共同体全体の罪のための悔い改めの祈りをささげます。ネヘミヤは神の御前に進むためには、まず心からの悔い改めがなければ近づくことができないことを知っていたことでしょう。しかも彼とは直接関係のなかった先祖たちの犯した罪の歴史と自分自身を一体化することで執り成しの場へと進むのです。わたしたちはネヘミヤを通して、信仰とは決して一人の救いだけにとどまらず、信仰共同体の救いまでも含むものであることを教えられます。
 ネヘミヤは、更に進んで神の約束に目を留めることになります。神は、イスラエルの犯した罪のゆえに滅ぼされ、バビロン捕囚といった悲しみに落されたけれども、イスラエル共同体が悔い改め、主に立ち帰り、戒めを守り行なうのであれば、主なる神は必ず赦してくださると、申命記30:1〜4で約束しておられます。ネヘミヤは、神のその約束の上に立って「思い起こしてください」と訴えます。そうです。ネヘミヤの祈りは、御言葉の約束の上に立つ祈りでした。わたしたちの信じる神は、御言葉の約束されたことを守られるお方です。神は今日も神の人に御言葉を通して語られ、御言葉を通して関係を深めておられます。成熟したキリスト者は、自分の思いや感情に頼る人ではなく、常に御言葉の約束に立って祈り、御言葉の約束を生きる人です。その人はどのような試練や妨害、状況にも振り回されることはないのです。
 最後に、ネヘミヤは具体的なリクエストで祈りを終えます。それは、「今日」、アルタクセルクセス王の前に立つ時、王から憐れみを受けることができるようにしてほしい!という願いでした。ネヘミヤの祈りは、漠然としたものではありませんでした。ネヘミヤは11節を通して、自らを「神の僕」と、アルタクセルクセス王を「この人」と呼びます。これは、「主の主、真の支配者こそ神」であるという信仰告白です。神の前に、ペルシア帝国の王はただ一人の人に過ぎません。あなたの目の前の人を恐れないことです。すべてを支配しておられる神を信じ、一歩を踏み出す人は幸いです。