2016.8.7

『 あなたは隣人ですか 』 (オバデヤ1:10〜14)
 主にある恵みと平和、十字架の慰めが、平和礼拝に集われたお一人お一人の上に豊かにありますように・・・。
 わたしたちは、近頃、相模原障害者施設で起きた殺傷事件をはじめ、地球規模で起きているテロ、アメリカの人種葛藤による殺し合いなど悲惨な事件事故が悪夢のごとく絶えなく続いている日々を過ごしています。毎朝ニュースに目を配ることに怖さを覚えるほどです。どうすればいいだろうか、キリスト者としてどのように生きるべきだろうかと頭を悩ませる私たちです。そんな私たちに向かって主イエスは「あなたは誰かの隣人ですか」と問いかけておられます。
 さて、本日の聖書本文であるオバデヤ書は旧約聖書の中で最も短い書物で、エドムという国の罪とその罪の結果としての神の裁きが記されています。エドムという国は「ヤコブエサウ」という物語に登場するエサウの子孫として、長い間葛藤関係にあった兄弟の国南ユダがバビロンによって滅びるのを遠くから眺めていました。しかし南ユダが立ち直れないようになったところで、エドム自らも異国の敵と同じく南ユダいじめに加わります。オバデヤは当時のエドムが兄弟の国南ユダに対してやってはいけなかった8つ罪を明らかにしています。①お前は眺めていてはならなかった  ②喜んではならなかった ③大きな口をきいてはならなかった(嘲笑ってはいけなかった)④わが民の門に入ってはならなかった ⑤苦しみを眺めていてはならなかった ⑥彼らの財宝に手を伸ばしてはならなかった ⑦逃げて行く者を殺すために、別れ道で待ち伏せしてはならなかった ⑧生き残った者を引き渡してはならなかった、という8つの罪でした。特に、二回も強調されている「眺めているだけの罪、すなわち傍観の罪」に目がとまります。
 神の家族の皆さん、人がただ眺めることだけにとどまるとは、“自分とは関係ない!”と思っているからでしょう。また、“面倒なことに関わりたくない”という自己防衛の本能から出た行動であると思います。ある面、日本社会に深く浸透している「迷惑かけたくもないし、迷惑を受けたくもない」、ということと近いかもしれません。
 イエス様の例え話の中でエドムの罪に似ている傍観者の姿が、「善きサマリア人」の物語に登場します。強盗にあった人にとって、祭司とレビ人はエドムと同じ傍観者にすぎませんでした。主イエスが求められるキリスト者の姿は、苦しむ人の「真の隣人」になることです。そして苦しみに遭う人の隣人になろうとする人に求められるのは、傍観ではなく、愛から出た積極的な関わりです。“喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。(ローマ12:15)”という聖書の御言葉を心がけながら、傍観者ではなく誰かの真の隣人になることこそ、今の時代に求められる姿勢です。