2016.8.28

『ネヘミヤに学ぶ⑧』〜試みに遭う時〜(ネヘミヤ記4:1〜14)
 何か良い計画を立てて始めようとしたことが、思いも寄らなかった反対に遭い挫けてしまった経験がありますか。もしくは今現在何か反対に遭い苦しんでいる方がいるかもしれません。このような経験は個人的、また共同体的においても度々立たされることであります。
 今まで私たちはネヘミヤ記の内容を通して城壁再建工事がどのような過程を経て進められてきたのかを詳しく分かち合ってきました。しかしすべてが順調に進められたわけではない。本日与えられた聖書箇所ではイスラエル共同体の内外からの激しい妨害と嘲り、批判の中で試みられる様子が描かれています。とりわけ私たちが試みに遭う時、どうあるべきなのかについてネヘミヤの信仰と姿勢から大切な教えをいただくことができます。3:36〜37節、「わたしたちの神よ、お聞きください。このように辱めを受けているのです。彼らの投げつける侮辱が彼ら自身の頭上に降りかかり、捕らわれの身となって異国で辱めを受けるようにしてください。その悪を赦さず、その罪を御前から消し去らないでください。彼らは再建に励む者を嘲っています」。・・・試みに遭う時、ネヘミヤのしたことは「祈り」でした。彼はペルシアで城壁が崩れ落ちた知らせを聞いた時から、再建工事の始まりの時にも、終わりの時にも、まず、いろいろと人間的な解決方法を考えたり、探したりすることではなく、早速祈りに入ります。しかもネヘミヤの祈りは、ストレートであって、常に単純明快でありました。このようなネヘミヤの祈りの姿勢があったからこそ、偉大なる神の業を成し遂げることができたことでしょう。・・・同じように、主なる神は、私たち小泉町教会の群れが様々な試みに遭われる時、素直に祈りの場へと進むことを望まれるはずです。とりわけ思いも寄らなかった妨害や批判、試みに遭う時、私たちの成すべき優先順位となるのは、言うまでもなく「信仰と心を合わせて祈る」ことです。これより先を行くものがあってはならないのです。
 しかしネヘミヤとイスラエルの民らはただ祈りだけにとどまることはありませんでした。4:3、11節、「わたしたちはわたしたちの神に祈り、昼夜彼らに対し、彼らから身を守るために警戒した。・・・城壁を築く者、もっこを担いで運ぶ者は、一方の手で作業をし、もう一方の手には投げ槍を取った。」・・・彼らは文字通り昼も夜も、片手に作業をし、片手に投げ槍を取って敵に備えるという姿勢で城壁再建に力強く臨んでいたのです。小泉町教会の群れが「わたしたちの神はわたしたちのために戦ってくださる。」(14節)という信仰のもと、片手には祈りと御言葉を、片手には奉仕と霊的戦いの武器をとって進む神の喜ばれる教会を建てあげますように。ハレルヤ!