2016.9.4

『 逃れの町へ 』 (ヨシュア20:1〜9)
 ヨシュア記20章には約束の地カナンの分割が終わったところで、最後にイスラエルに命じられたことが記されています。その最後の命令こそ「逃れの町」を定めるということでした。“意図してでなく、過って人を殺した者がそこに逃げ込めるようにしなさい。そこは、血の復讐をする者からの逃れの場所になる。”(20:3)
 意図してでなく、過って他人を傷つけてしまったり殺してしまったりすることは、誰にでも起こり得ることです。しかしイスラエル共同体は神より授かった十戒の教えにより、他人を殺した人は必ず殺さなければならない定めがありました。しかし神は十戒に続き、意図してでなく、過って人を殺してしまった者を守るために「逃れの町」を設けることも命じられたのです。この箇所を通して私たちは旧約聖書の神が望まれる御心を知ることができます。人はよく旧約の神、とりわけカナン征服における神を無慈悲で残虐な神と思いがちです。そこから「旧約の神は裁きの神、新約の神は愛の神」という主張が力をもつようになったわけでしょう。しかしそうではない。旧約聖書に描かれている神は常に神の民と語り合い、絶えず神御自ら望まれる御心が何であるかを伝えられるお方なのです。「逃れの町」こそ、神ご自身が定められた赦しと愛、救いのしるしだったのです。神が望まれる共同体は人々の殺し合い、復讐が行われるところであってはならないのです。しかも逃れの町に逃げ込める者はイスラエル人だけでなく、当時の社会的弱者であった寄留者(在留異国人)をも含むものでした。
 一度逃れの町に受け入れられた者は逃れの町から離れない限り復讐する者から護られ平安に暮らすことが許されます。あるいはその時の大祭司が死んだらその殺人者はすべての罪から解放され自分の町に帰ることができました。その理由こそ、大祭司の死が一つの時代の終わりを象徴するという意味であったからです。この箇所には全人類の大祭司なるイエス・キリストの贖いの死による恵みの福音が描かれていることが分かります。既に私たちの大祭司であるキリストは、私たちの罪のために十字架の上で死んでくださいました。イエス・キリストの十字架のもとは私たちの逃げ込むべき逃れの町となってくださったのです。
 神の家族の皆さん、小泉町教会こそ、罪を犯し彷徨う者、人生の重荷を負い罪の中で疲れ果ててしまっている者が逃げ込める逃れの町、神の聖なる大祭司がその死によって建てられた現代の逃れの町であることを心掛けましょう。実は私たち自らも罪と死の鎖から先に逃れの町に逃げ込んだ者であったことを忘れてはなりません。
 「誰でも逃げ込んでください。大祭司なる救い主は誰も拒むことなく待っておられますよ!」と、救いを求める人々を招き入れる逃れの町の住民としての心の備えと愛の実践に生きる神の家族でありますように・・・。ハレルヤ!