2016.9.18

 『 白髪になるまで 』(イザヤ46:3−4)
 聖書を見ますと、「信仰者は生涯現役」であることを教えてくれます。アブラハムは75歳になって神のビジョンを受け信仰の旅を始め、100歳になって子どもを授けられます。モーセは80歳で神に召されイスラエルをエジプトから導き出すという使命を託されました。またカレブも85歳になって厳しい山地を開拓するという超人的な力を発揮する・・・、聖書の信仰の先輩たちは「信仰によって」神からの使命を果たしていったことを覚えます。願わくは、今日敬老礼拝を迎えられる小泉町教会のお一人お一人が、神より授かった使命の生涯を、まっとうされますように・・・。
 本日のイザヤ46章1〜4節には偶像の神々と真の神を対比しながら、とりわけ父なる真の神が神の民をいかに愛され、その人生を導かれ祝福されるかを教えます。1,2節に登場する「ベルとネボ」という偶像の神々は自分たちを崇拝する人々に重荷を負わせる存在として語っており、3,4節では真の神が神の民が生まれた時から彼らを背負われ、彼らの重荷を担われると語っています。とりわけ創造者なる真の神は神の民イスラエルを生まれる時から負われ、彼らが白髪になるまで背負われるという約束の言葉に注目すべきでしょう。
 「白髪になるまで」とありますが、白髪は老人の特徴です。白髪は気付かないうちにやって来ます。人間的に見ると、白髪は体力の衰えを表し、人生の終わりが近いということを意味するものです。しかし、聖書の解釈は違います。“白髪は輝く冠(箴言16:31)”、また、“白髪は老人の尊厳(箴言20:29)”と教えます。それほど、神にとって老人は敬われ、尊ばれるべき存在であると言えますし、だからこそ、白髪に対する聖なるプライドをもつべきだと思います。わたしたちが年齢を重ね、白髪になり、体力の衰えを感じる時に、いよいよ神様によって背負われるという信仰を持つことが出来たら、何と素晴らしいことでしょう。
 高齢化社会になっている日本の国においては、老人の存在が段々と軽んじられているような現状があります。しかし、たとえ日本社会からは見離されても、神は「わたしが背負う」と約束してくださいます。特に4節では、「わたし」という代名詞が3回も繰り返されることによって、私たちの神が必ず成してくださるという約束を強調しているのです。
 “疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう(マタイ11:28)”と招かれるイエス・キリストの十字架は、今日のイザヤ46章の御言葉の約束の実現であることを覚えましょう。“白髪になるまであなたを担い、背負い、救い出すために”主イエスはわたしたちのところに来てくださり、十字架の上で両手を広げてわたしたちを待っておられるのです。そのイエス・キリストの十字架のもとに近づいて参りませんか。