2016.10.23

『 善い業を行なって歩む 』(エフェソ2:8〜10)
“なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。(2:10)”
 キリスト教の中心は「恵み」にあります。「神が罪人である人類を愛して独り子を贈られ、その独り子が十字架の上で罪人たちの身代わりとなって死んでくださった。だから、御子イエス・キリストを主と心から信じ受入れる人は、神の子とされ救われる」という福音こそ、価なく与えられた神からの贈り物、「恵み」なのです。ここには一つの法則が生じます。まず、神からの恵みが与えられ、その恵みを罪人が「信仰によって」受入れ、「信仰によって」救いが実現するという法則です。“事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。(2:8-9)”パウロが彼の書いたすべての手紙において、繰り返し強調していた福音の核心がここにあるのです。それほど恵みと信仰による「福音理解」は、決して忘れられたり、歪曲されたりしてしまってはならない大切な真理なのです。
 しかしここで問題となるのが、「行い」の位置づけです。パウロは、救われるのは信仰によるのであって、行いによるのではない!と断言します。それは、だれも救われたことに誇ることのないようにするためでした。しかし、ここには一つの落とし穴が存在します。それは、“信仰さえあれば、あとは万事O.Kなのか、悪い行いをし続けてもかまわないのか。”ということです。答えはいいえ!イエス・キリストの十字架によって救われ新しく造られた者は、その恵みに心打たれ感動し、神が前もって準備してくださった善い業を、積極的に行なって歩むことになるのです。キリストによって生まれ変わった人は、聖霊様との交わりの中で、“何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえて、行なって歩む”ように常に心がけるのです。これこそ、“イエス様だったらどうされるだろうか!”という問いかけの中で生きていくキリスト者の姿でしょう。
 世界情勢、自然、経済、倫理など、どこを見ても希望の見出せないような現実を前にして、恵みを授かった者として私たちはどう生きていくべきでしょうか。今から500年前、「聖書のみ、信仰のみ、恵みのみ」という旗をかかげながら宗教改革という善い業を成し遂げられた神が、厳しい現実を生きている私たちキリスト者に、準備しておられる善い業があるでしょう。願わくは、小泉町教会の小さな神の家族が、神が前もって備えておられた善い業を黙想し、聖霊の助けと導きのもと、具体的な行いへと歩き出す群れでありますように・・・。ハレルヤ!